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鎌倉殿の13人のワンコのレビュー・感想・評価

鎌倉殿の13人(2022年製作のドラマ)
4.3
【運慶の薬師如来像、北条義時の願い、勝海舟の願い】

大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で終盤に北条義時が、運慶に対し「大倉薬師堂」に祀る自分自身を模した薬師如来像の制作を依頼する場面がある。
この時、運慶は同じく大倉薬師堂に祀る十二神将像を製作中だった。

覚園寺の前身・大倉薬師堂は北条義時が開基で、かつて祀られていた十二神将像の「模刻」が鎌倉国宝館に展示されている。この模刻は、かつて、辻の薬師堂にあったものだ。

「鎌倉殿の13人」では、鶴岡八幡宮への右大臣拝賀の際の企みが源仲章の知れることになって、源実朝の太刀持ちの役割を取り上げられるが、最終回でMJ演じる家康が読んでいた「吾妻鏡」の物語では、十二神将像の中の戌神像が白い犬になって北条義時に命の危険を知らせ、敢えて 源仲章にその役割を譲って命が助かるというストーリーになっている。

源実朝も源仲章も公暁に殺害されるのだが、「愚管抄」では、その現場近くに北条義時はいて、首謀者のひとりであったことを匂わせている。

大倉薬師堂は、その後火災にあい、その際、仏像は持ち出され無事だったとされるものの、どういう経緯かは分からないが、更にその後、運慶作の仏像達は薬師如来像も含めて失われ、十二神将像の模刻が鎌倉国宝館に残されるのみとなってしまった。

ドラマでは、運慶はちゃんとした薬師如来像を作ったことになっていないが、大倉薬師堂にあった薬師如来像が運慶作だったのか今や知る術はない。

運慶の真作とされる仏像は現在、国内に約25体あるとされているが、東国には伊豆の国市の「願成就院」に5体、横須賀市の「浄楽寺」に5体と、鎌倉に残っている運慶仏はない。
更に、願成就院は北条時政が、浄楽寺は和田義盛が開基とされているのもどこか皮肉な感じがする。

政権運営や、その後のこうしたエピソードも含めて、あれこれ言われがちな北条義時だが、実は、この「鎌倉殿の13人」よりずっと以前に北条義時を評価する重要な人物がいたことはあまり知られていない。

その人物とは、戊辰戦争にあって、西郷隆盛と直談判し、無血開城によって江戸を戦禍から救った勝海舟だ。

「氷川清話」は勝海舟の談話録で、勝海舟の出会った人物や尊敬する歴史上の人物などを記していて、その中に北条義時について語った話が残っているのだ。

昔、この氷川清話を読んで僕は西郷隆盛が戊辰戦争や国家運営をどう考えていてのか認識を修正した方が良いんじゃないかと考えた。
勝てば官軍とはいうものの、勝海舟の考える国家の有り様や、為政者の有り様、心構えなど勝海舟の考え方も、ここから知ることが出来るし、歴史に「もし」は禁物だとしても、日本は戦争国家ではなく、もっと別の道を歩めたのではないかと思ったりもする。

氷川清話にある北条義時については短い簡潔な文章なので紹介したい。

「北条義時は、国家のためには、不忠の名をあまんじて受けた。すなわち自分の身を犠牲にして、国家のために尽くしたのだ。その苦心は、とても軽々たる小丈夫にはわからない。頼山陽などは、まだ眼孔が小さいわい。おれも幕府瓦解のときには、せめて義時に笑われないようにと、幾度も心を引き締めたことがあったっけ。」(※ 頼山陽は、江戸時代の国学者で、その著者・日本外史は、幕末の尊皇攘夷に大きな影響を与えたとされるが、思想的に偏りがあって、勝海舟は、これを何も分かっていないと批判しているのだと思う。)

僕は、これを読んで、勝海舟は、国を二分するような戦いがあってはならないと、更に、その原因(敵)が誰であろうと、それを何とかして収めなくてはならないと考えていたのだろうと思った。

江戸時代は大坂夏の陣から考えても武家政権としては、争いのない年月が最も長い時代だ。

その次に長いのは、元寇のような外部からの侵攻を除くと、実は、鎌倉時代だ。
室町時代ではない。
更に、元寇では、近年の研究で、神風のみならず日本の武士が”一致団結”して凌いだことも判ってきている。

「承久の乱」から鎌倉幕府の滅亡までは約110年。

室町幕府で足利義満が南北朝時代を終わらせ、戦国時代の幕開けとなる応仁の乱が始まるまではわずか80年だった。応仁の乱は京都守護の細川・山名の対立が発端だった。

勝海舟は、戦乱を避けるために後鳥羽上皇らと戦った北条義時を、仮に朝敵と見なされる可能性があったとしても、国内を戦乱から守るために官軍と対峙した自分自身と重ねたのではないだろうか。

また、余談だけれども、無血開城をして江戸での戦乱回避に同意した西郷隆盛への評価を綴り、戊辰戦争の本質は何だったのか伝えようとしていたのではないかと感じる。

運慶に薬師如来像のモデルを自分自身にするよう頼んだのは北条義時だ。

薬師如来は、一義的には、民衆を疾病から救い、豊かな生活をおくるなど現世のご利益(りやく)を叶える仏だが、もう一つ、密教では東方浄瑠璃世界の教主とされ、東の国、つまり、日本の帝(天皇)と薬師如来を同一視する思想もかつてはあった。

こうしたことを考えると、北条義時は、日本の統治者は自分自身だと主張しようとしたようにも思える。
しかし、自分を模した薬師如来像を作ることによって、朝廷(帝)と鎌倉は一体となって日本を統治しなくてはならないのであって、戦乱の火種になるようなことはあってはならないという願いを込めようとしたのではないかとも思いたくなる。

ただ、その後、この願いは後醍醐天皇によって破られ、更に、幕末には天皇を担ぐ官軍によって破られた。

第二次世界大戦が終わってから未だ100年も経過していない。

徳川江戸時代はおろか、北条執権の大きな戦乱のない治世も超えていないのだ。

※ 最終回の閉め方は、話題になっていたほど、僕には納得感はなかったので、マイナスにした。
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