スージー

母性のスージーのレビュー・感想・評価

母性(2022年製作の映画)
4.1


"女には2種類いる。「母」と「娘」"

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湊かなえが大好きで、原作を何年も前に読んでいて、とりわけこの作品は面白くて好きで、大好きな戸田恵梨香が主演とのことで見てきたのだけど、はあ、すげぇなこれ。
(ちなみに原作の細かなところはぜんぶ忘れてる)

最初に、あれ?と思った点を書いておくと、ラストのラスト。戸田恵梨香の扉パタンでエンドロールにして欲しかった。パタンのあとに、永野芽郁ちゃんのシーンにうつり「わたしはどっちかな」と言って、エンディング曲被せて終わりなんだけど、えええええ。「(母と娘の)どっちかな」って思ってることなんて、彼女が「女には2種類いる」と言った時点でわかりきってること。わざわざ言わなくても。それに、歌詞の内容こそ物語にあってるけど、曲調それ?な主題歌が流れて、モヤモヤしながらのエンドロールでした。その前までがめっちゃよかっただけに。

本作は、母に愛され、母に褒められる喜びを感じながら生きてきたルミ子と、母親に愛されたいと必死に思い、周りの大人の顔色を伺いながら生きてきた娘の物語。同じ状況、同じ言葉でも、母と娘とで受け取り方がちがう、というのをハコヅメコンビが見事に演じてくれています。

このふたりの演技が本当に素晴らしくて、さすがだなあと思いつつ、いやあ高畑淳子がすごすぎて、もう淳子の演じるクソ義母もっと見ていたい!とワクワクしてしまった。絵に描いたようなクソ義母だけど、自分の娘が一番だったり、最後の方で自分の孫を心配して取り乱す素振りは、こんなクソでも彼女には「母性」があるという、母になっても娘でいたいルミ子との対比なんだと思われる。いやあ素晴らしいね。

さて、ここからはさらに確信的なネタバレなのでご注意ください。

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この映画でわたしが最もグッときた、もとい、鳥肌ぶわーーーだったのが、自分のせいでおばあさまが死んだことを知ってしまった永野芽郁ちゃんが自殺しようとしたシーン。倒れた娘を前にルミ子が「清佳!!!!!」と叫ぶのだけど、そこで「あっ」とあることに気が付き鳥肌ぶわーーーーでした、、そして永野芽郁ちゃんの「わたしは自分の名前が清佳だったことを思い出した」というナレーションが入るんです。そう。作中、それまで本当に一回も、清佳と名前で呼ばれることがないんですよ。そしてそれにまったく気が付かなかった。名前が出てこないことに一切の違和感を覚えさせないのは、例えばクソ義母が自分の娘以外は「あんたァ〜!!!」と呼んでいたりするからかもしれない。はあクソ義母最高。こういう名前を伏せる演出って「わざと出さないんだろうな」ってわかっちゃう作品が多い中で、少なくともわたしはまんまと最後まで気が付かず、このシーンで「ああああ!しゅげ〜〜〜〜〜!!!」と鳥肌、清佳のナレーションに「そうだね!?!?!?!」と心の中でレスポンスしました。ふう。

そして、清佳とは逆に、義母にもルミ子にも清佳にも名前を呼ばれまくる律子。クソ義母の娘、つまりは清佳の叔母にあたる子なのですが。そんな彼女の名前がのれんに印字されているのをちらりと見せる終盤の演出もニクい。「あーーーこのお店りっちゃんのお店なのね!」と見ている側がわかるし、なおのこと清佳が誰にも名前を長らく呼んでもらえなかったことに見ている側の心が抉られる。最後りっちゃん幸せそうでよかった。清佳も幸せだといいな。

そして問題の(?)ラストシーン。ラストのラストはさておき。清佳が妊娠したことを母のルミ子に電話で伝えた時の返事がこれまたゾッとした。おめでとうと言うこともなく、自分が自分の母からもらった言葉をそのまま娘に伝える。置かれている状況や、身篭ったことに対する捉え方もちがうのに、お門違いなその言葉は まさに「同じ言葉でも母と娘とで受け取り方がちがう」というこの物語の本筋をついていた。一見ハッピーエンドのような雰囲気に持ってって、結局ルミ子の中で母>>>>>>>娘だという事実を突きつけられる。一種の絶望にも似たなにか。そんな雰囲気の中で、ルミ子が扉を閉めて終わる。で、よかったのに!!!!!!

なんで!!!!!
なんで!!!!!!!!

と、まあ、最初に不満に触れておけば、あとはよかったところだけ好きなだけ書き連ねることができると思いましたが、再びエンドロールの残念さを思い出してしまいました。あは。

久しぶりにまた原作を小説読みたいな。
スージー

スージー