志、敬意、衝動。「情報保障」「ユニバーサル」「分かりやすさ」がとり逃すもの
全部盛りの言葉たち———伊藤 亜紗(美学者)
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社会性のある生き物として、人間は一人では生きていけない。
そんな、どこか弱さをもつ私たちが、この変化が激しく多様な世界を生きていくために、他者と共に生きていくためにはコミュニケーションや対話がとても重要だとおもうんです。
映画『こころの通訳者たち』では、見える人・見えない人・聴こえる人・聴こえない人というそれぞれコミュニケーションの手段が異なる人が、力を合わせ、これまで実現されてこなかったことをやり遂げるそんお姿がとてもかっこよくて、痺れました。
私には、この映画が、価値観・思想・信仰・国・民族・セクシュアリティ・肌の色などが違えど、共に生きていこうとする多様な人同士が、戦争や傷つけあうのではない方法で、より良い未来を紡いでいく希望を感じざるをえませんでした———田中 美咲(社会起業家)
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ちらばったことばが、さまざまな人の思いと手を通して、ひとつになっていく。
ことばが複雑に重なりあうことの幸福ってあるよねえ———齋藤 陽道(写真家)
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この映画を通して、わたしはまるで見えていなかったし、聴こえていなかったと知った。
シネマ・チュプキの二階にある小さな会議室では、あるアイディアを巡って、鋭利な「ことば」がぶつかり合う。
劇中で完成した映画は、見たことのないような手話と、聴いたことのないような声が、幾重にも折り重なって溢れ、わたしを覆っていた真空を突き破る。初めて目が見えたかのように、初めて耳が聴こえたかのように、涙がこぼれ落ちた。
この新たな創造の現場に立ち会えたことに、心から感謝したい———仲本 拡史(映像作家)
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「通訳」とか「音声ガイド」という言葉を聞くと、技術的な話のように感じるけど、まさにタイトルの通り「こころ」の話だと思う。携わるひとりひとりが同じ人間であり、表現者。一つの作品を何重もの世界に広げてくれる。伝えたい、わかりあいたい、という情熱が境界を超えていくということを教えてくれる作品です———栗栖 良依(アートプロデューサー、東京パラリンピック開閉会式ステージアドバイザー)
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しばらく涙がとまらなかった。確かに何かを共有できた。
映画の作り手や出演者、会場のお客さん、盲導犬までも…一体となれた気がした。
字幕、音声、手話、映像……それらを越えた想いと感情が同じ空間に漂っていた。
…人って凄い!と改めて表現と感覚の可能性を感じた。ありがとう———清水 崇(映画監督)
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感動する、といえばそうなのかもしれないが、それだけでは表現しきれない奥行きと複雑さを秘めている。聞こえない人、見えない人、その間をつなぐ人々、そして自分自身が持つ感覚がフル稼働して、未知の感覚世界を交互に行ったり来たりするような感じがした。
巧みな構成や編集のおかげで、視点が何度も入れ替わり、最後にはもう一度劇場にいる自分にちゃんと戻っていく。このような映画体験は初めてだった———川内 有緒(ノンフィクション作家)
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「聴こえない人」のための手話を、「見えない人」に伝える。
この難題に挑んだ人たちの尊さ、こころの美しさを、私は言葉で表現する自信がない。
だからとにかく、見てほしい。
日本でいちばん優しい映画館を舞台に繰り広げられた、この奇跡の物語を———大島 新(ドキュメンタリー監督)
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劇団時代に座長さんからチャップリンを勧められ「街の灯」を観て心が激しく動きました。
そして盲学校で授業をしたこともあり共感することが多く、ピュアな部分と困難を乗り越える力を感じました。
皆さんの熱い想いが原動力となり、伝えることの大切さを直球で感じることができる作品に感謝の思いです———水田 わさび(声優)
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舞台手話通訳者の「表現」を見えない人に伝えることから手話表現や音声ガイドの奥深さに迫っていくと同時にたくさんの方に通じる「他者へ思いを渡す」[映画の言葉でいう「バトンを繋ぐ」]物語だなと思いました。それぞれの立場からの紡がれる重さや温かさのある言葉たちと、そこで交わされている議論を観ていて、こうした場こそ出演者の難波さんが仰っていたように「対話」だなと。そして、緊張感と好奇心が渦巻く、すごく豊かな場だなと、とても刺激を受けました。
鑑賞しながら映像制作していたときの、佐沢さんと美月さんをはじめとした一堂で集まったときの対話を思い起こしていました。その場では、ばっかりばっかりの舞台での工夫だったり、佐沢さんがある舞台作品の監修で見えない人と話していてハッとしたという「お皿が割れる音」の気づき(本編には入れられなかったのですが…)など、交わることで触れられる世界なたくさんあったのですが、『こころの通訳者たち』にもまさに異なる身体感覚の人たちが混ざり合って「発見」が立ち現れてくる瞬間がたくさん込められているな〜と思いました。 難波さんのガイドが入ることで(手話通訳者の)存在イメージが立ち現れるとの話、石井さんの家族との表情の話、白井さんの見えないという感覚の共有の話などなど。
こうした「対話」の場をもっと作りたいなと鼓舞されました。
そして議論を重ねた上で(一観客としてその様子の一端と並走してきた中で)観る『ようこそ、舞台手話通訳の世界へ』の音声ガイドの入ったバージョンは「ことば」の新たな側面を垣間見た感じがして不思議な体験でした。言葉が重なることである種のしつこさを感じるのかなと思いきや、言葉に質量と彩度がもたらされたように思えて、「言葉」による表現の面白さを改めて感じました———石田智哉さん(映画監督(『へんしんっ!』))
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映画を見て、伝えるとは何かを考えました。何を伝えたいのか、なぜそれを伝えたいのかです。自分の視覚機能を使って見えない見えにくい人たちに見ている人たちと同じ情報を伝えることは出来ません。自分の聴覚機能を使って聞くことが出来ない人たちに聞いている人たちと同じ情報を伝えることも出来ないと思います。盲ろう者の作業所で講演をした時、当事者たちは全員演台の私に背中を向けてそれぞれの人の情報収集の方法に対応した通訳者と向かい合っていました。私に見えていたのは通訳者たちの顔だけでした。私が持っていた対面の考え方が変わりました。このような対面もあるのだと思いました。
映画の中で通訳者たちが”私”はこう伝えると話されていたシーンがありました。ニュアンスの違いは通訳者にゆだねられているのだと思います。また情報を受け取る当事者(?)の背景によって受け止め方にもそれぞれ違いがあり皆に同じように情報が伝わらない可能性がありその違いこそがアートを生むのだと思いました。
個性の強い人たちが集まり目指したものは一致ではなく違うということの素晴らしさなのだということを改めて感じた機会でした———多和田悟さん(公益財団法人日本盲導犬協会理事、盲導犬育成統括責任者)
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私が初めて『手話』という言語に出会ったのは、とある聾女優さんにこんな質問をした時です。「手話で演じるということと、ダンスで表現することは、何が違うんですか?」今思うと、何ととんちんかんな質問でしょうか。そんな疑問を持ってしまうほど当時の私には『手話』と『ジェスチャー』と『身体表現』の区別が付かなかったのです。
私は物心付いた頃から全盲、『視覚』という感覚がどんなものなのか想像も付かないほどです。私にとって言葉とは耳で聞くものでしたし、視覚的なコミュニケーション方法なんて全く未知の世界でした。
そんな私に彼女は「手話は『言語』だから。言葉をしゃべることと、ダンスをするのは当然違うでしょ?」と答えてくれたのです。その時初めて私は手話が言語であることに衝撃を受け、深い興味を持ちました。
このドキュメンタリーを観て、その時のわくわく感、新しい扉が開く瞬間を思い出したのです。映画というメディアを通して異なる文化を持った人が交流する姿は、自分自信の経験と重なり、非常に感銘を受けました。
私は2021年に舞台『テンペスト―初めて海を泳ぐには』に出演し、様々な障害や背景を持った俳優・演出家と共演しました。出演者の半数は手話話者で、稽古場でのコミュニケーションは手話通訳士さん便り。声を使わない聾俳優は私にとってはどこにいるのかも分からず、初めは直接話すことなんてできないと思っていました。
が、ある日稽古場に入ると、無言で肩を叩かれました。振り返ると、手に触れました。その手はくるっと動いて……。「ああ、おはようございます!」相手の手を触って手話が分かったのです。私もあいさつの手話を返しました。たかが挨拶ができただけだったのですが、感動でした。
今現在、私はまた新たに手話を使った舞台「手話裁判劇『テロ』」の稽古に励んでいます。前作より聾俳優と直接コミュニケーションを取る場面も増え、「これは了解できた!」「こっちは伝え損ねた!?」とお互い思考錯誤が耐えません。
しかし、数年前はあんなに遠かった手話という言語が、今ではほぼ毎日触れるほどの身近なものになっているのは、改めて思うと不思議です。「どうしてこんなに近くまで来たんだろう?」と。
「やってみる に価値があると思う。結果は気にしない(笑)」
『心の通訳者達』の中で、廣川さんがおっしゃった言葉です。
この言葉を聞いたとき、目から鱗が落ちたようで「それだよ!」と心で叫びました。未知だった視覚的コミュニケーションの世界。結果がどうなるのか分からない日々。それでも「やってみる」を合言葉に、私は手話に触れようと手を伸ばし続けていました。
未知の世界へ扉を開こうとしている人に、この映画の、奮闘した人々の姿が、言葉が、ぴったり寄り添ってくれるのだろうと思います———関場理生さん(俳優・劇作家)
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私は、ひょんなことから障害を持つ人が出てくる映画を何本か作ったのだが、その“ひょん”がなければ出会えなかった世界が本作では丁寧に描かれている。
表現とコミュニケーションをめぐる冒険、「伝える」というシンプルかつ複雑な行為の困難と楽しさ。 それは障害の種類、有無関係なく、誰でも体験するものだということを改めて気づかされた。
本作での難波創太さんは相変わらずかっこいい。初対面は、お互い怒りに満ちていて攻撃的になり最悪なものだったが(笑)、そこから10年、リスペクトは変わらない。わかり合っている、とは言えないが、わかり合いたい、とは常に思っている。
その想いを他者に抱き、行動を取り続けることが、生きる、ということなのではないだろうか———佐々木誠さん (映像ディレクター/映画監督)
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それぞれの感性に応じてわたしたちは独自のリアリティーを創造しながら生きている。違うリアリティーを生きるわたしたちの心の空間をつなぐためには、どうすればいいのだろうか。
「分かり合いたい」と強く思うことによって、はじめて理解への扉が開く。その原動力は一人一人の個人の力だ。システムは後からやってくる。
あらゆる「コトバ」が多層に重なり合うこの映画を観ることで、自分の「心の空間」に深い奥行きと広がりを発見し、そこから他者の心の空間へと無数の通路がつながっていることも発見するだろう。
そうした未知の世界を気づかせてくれるのは演劇や映画が持つ力だ。そして、そうした文化の場を静かに支えている個人のしなやかで逞しい力も溢れている———稲葉俊郎さん (医師・医学博士、軽井沢病院院長、 「みちのおくの芸術祭 山形ビエンナーレ2022 山のかたち いのちの形」芸術監督)
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映画の音声ガイドについては難波さんに取材でお話を伺った際に、人によって映画の何を言語化してもらいたいかが違うということはお聞きして、見えない人の違いとして興味深いなと思っていたのですが、実際に手話通訳という観点も含めて一緒に見ると、手話の深み、音声ガイドの深み、翻訳から生まれる面白さまでが押し寄せてきました。
ろう者の方にとっての目の忙しさと、見えない方にとっての耳の忙しさがリンクしていたり、翻訳される方がそれぞれただ受け取る事実を変換するだけでなく背景や深みを間や表情、声で表現していたり、まだ見たばかりなので頭の中で整理しきれていないのですが、もっとそれぞれの世界を知ったり繋がったりする方法や感じ方を探す余地がいっぱいあるんだなということを感じてワクワクしました———匿名(TVディレクター)
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ニュースやドキュメンタリーなどで聞こえた言葉を手話で通訳すること、画面に見える風景や仕草を言葉でそのまま説明すること。その二つと質が異なる、演劇の世界。
字幕では伝わらない登場人物の心を、どのように手話で伝えるのか。手話に込められた思いを、どのように音声にするのか。様々な模索を感じることができる作品です。
空間の広い範囲の中で、演者の動きと手話が、目の中に同時に飛び込んでくる。演者の台詞と舞台の解説、手話の単語が、同時に耳に流れ込んでくる。不思議な感覚を味わうことができます。
そして是非皆さんも、イヤフォンから聞こえる場面解説にも注目して、いや注耳してみてください。同じ場面について、前半と後半では、説明のしかたが異なっています。
最後にもう一つ。皆さんと一緒に、映画を楽しみたい視覚障害者が、演劇を楽しみたい聴覚障害者が、町の中にいることを、少しでも心に留めていていただけると嬉しいです———匿名(盲学校教員)
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