ゴダールは本作で、物語の連続性を破壊した。映画の運動を破壊した。唐突に詩的なナレーションが流れ、登場人物が変化する。省略をし、飛躍する。そして、映像はまるで絵の具で塗りたくったかのように、思える。まさに、ストーリーだけでなく、視覚を通しても詩を感じさせる。そして色は原色を使うことで、更なる大胆さを感じさせてくる。その自由奔放な精神と実験的手法は、映画の革命の核に存在しえる。それらを体現化することで、我々は虜にさせ、革命を起こした。アクション、ミュージカル、ロマンス、そんなものは、ただの飾りに過ぎないのだろう。そんなジャンルという存在は、彼の映画には存在しない。唐突に銃や死体が映し出される、普通の映画ならショッキングシーンなはずなのに、彼の手にかかれば、そんなものは無機質に日常的に思ってしまう。これが、暴力の虚構性。映画のショットの断片に、これほどの意味を成しえている。そしてこの、唐突性は、彼が映画はただの幻想であり、現実では無い、というメッセージにも感じとれる。映画はジャンルを無視し、物語も形式も連続性を拒絶している。例えば、突然挿入されるポップアート的な映像、断片的なナレーション、劇中のキャラクターがカメラ目線で語りかけるメタフィクション的手法。これらは物語の一貫性をことごとく崩し、観客を混乱させる。でも、この混乱こそが「気狂い」を映し出しているんだ。フェルディナン(ピエロ)は理想と現実の狭間で自己崩壊していくけれど、映画そのものもまた、ジャンル映画の定石や物語の整合性をあざ笑うかのように「崩壊」していく。アクション、ミュージカル、ロマンスはその瞬間ごとに姿を変え、意味を裏切り続ける。結果として、映画自体が「気狂い」となり、理性や秩序を拒絶している。フェルディナンの自己破滅的な行動や断片的な哲学的引用も、論理を超えた「気狂い」を体現している。特にラストの自爆シーンは、絶望と自由の狭間で何かを掴んだようでいて、実際には完全に「無」に帰してしまう。自己破壊=解放というパラドックスもまた、「気狂い」の究極の姿だ。アンナ・カリーナは、映画そのものを支配するかのような圧倒的な存在感を放っている。彼女の演技は、ただ美しいだけでなく、危うさと奔放さ、そして絶望と自由が混じり合った複雑な魅力を持っている。惚れ惚れしそうだ、あんな気狂いオンナはいないぜ。