matchypotter

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスのmatchypotterのレビュー・感想・評価

4.1
今年のアカデミー賞の最有力候補とされている。

製作会社は新進気鋭のA24。
斬新な要素と描き方でありながら、定番観のある芯はブラさずスピーディーでキャッチー、そしてそのパンチ力とストーリーライン、さすが。

『フェイブルマンズ』かこれか。
これが作品賞獲ったら色んな意味でアカデミー賞のこれまでの常識を覆す気がする。

キー・ホイ・クァン!
キー・ホイ・クァン!
キー・ホイ・クァン!

彼を観れただけでなんか感極まる。
『インディージョーンズ 魔宮の伝説』『グーニーズ』のあの子役。
それ以降はあまり表に出てこず、映画の裏方や演技指導をしていたらしい。全く知らなかった。
しかし、その彼が再び舞い戻る。

、、、ミシェルヨーと共に。
この映画は、極端に言えばミシェルヨーでないとその真の意図が表現しきれない映画だと思う。

純粋なアメリカ人ではなく、年齢的にもエネルギッシュな若さ隆々ではなく。
とは言え、適当な母親キャラの俳優であれば良いというわけでもないこの役所。

“マルチバース”。
並行する別次元の世界。それに巻き込まれるミシェルヨー。
ただのしがないコインランドリー経営してるおばさん。“貧乏暇なし”を地でいくおばさん。
その通りで家族にも奔走し、経営というか納税に奔走し、ただただ目の前のことに飲み込まれて明け暮れてるおばさん。

そんな彼女が突如エレベーターの中で「“マルチバース”からやって来た」とか言い始める夫に巻き込まれる。
その夫がキー・ホイ・クァン。一見、頼りない夫。

その夫が何やら急にシャキッとした人格になり“マルチバース”やら何やら世迷言を言い始める、、、納税局でこれから税金の審査をされるまさにその忙しい時に。

そこから彼女が理解するよりも早くどんどん“マルチバース”になっていき、習うより慣れよ的に事態を体で理解していく。

そして、彼女は“マルチバース”を行き来し、その別世界のまったく別の形で生きる自分にダイブすることができるようになり、とある使命を背負っていく、、、。そんな話。

なのだが。

“マルチバース”、別の例のヒーロー映画でも定番化しつつある“マルチバース”。
同時並行している別世界が現れることで、それだけで話が壮大になる。世界が2つになれば厚みは2倍、3つなら3倍、、、と。

この映画の“マルチバース”は、“全部のマルチバース”が関係し、影響することになる。もう、途方もない厚みと化す。

だけども、この映画、“マルチバース”なるとんでもなく途方もない世界に風呂敷を広げながら、実は最も距離の近い身近で普遍的なことを描いているというか。
最も遥か遠いモノで、今そこにある目の前のことを言っているというか。

その人の選択の数だけ分岐するという設定のマルチバース。
ということは、すべての選択を良い方向に選んだマルチバースもあれば、すべての選択を失敗したマルチバースもある。
すべての希望を叶えたマルチバースもあれば、すべてを諦めたマルチバースもある。

悪い方の選択をすれば後になって後悔を引きずり、選択を諦めれば次もまた諦めるようになったりする。

「あぁしておけばよかった、こうしておけばよかった」
「なぜあの時こうしなかったのか」

マルチバースを行き来することでその後悔、違った選択の結果が見れる。
これを経ながらそして、巻き込まれた戦いは一体誰と何のために戦っているのかを見出す、ある意味、彼女の壮大な旅。

だがこれって、“マルチバース”だから起きてる戦いではない。
彼女が行き来できて特別な存在だから戦えているわけでもない。

ここがこの映画の肝。
きっと、彼女が抱く思いや、見たモノや、対峙する相手、そして、彼女がそれらを経て選んだ道。
これは文明社会で生きる全ての人が誰でも普段抱いて、見て、対峙していて、選んでること。

だからこそ、この彼女が辿り着く境地には大きな感動がある。
奇跡的でドラマチックというよりも、普遍的な感動。

途方もなくわけわからん大きな旅を経て、いつも手の届くところにあった大切なモノに気付く、そんな映画だった。

前半のアクションぶりを観ながらこれがアカデミー賞の候補っていよいよアカデミー会員の皆さんがあれこれ叩かれ過ぎていよいよ頭がおかしくなったが、と思いながら観てたら、この後半とセットになって納得した。

“ない”ことを悔いて諦めて嘆くよりも、“ある”ことを感謝して愛でよ。
どんな選択して、どんな生き方しようとそこに輝くものはある。それに気付くことこそが幸せなのかもしれない。


F:2009
M:11010
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