私はこーへ

エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンスの私はこーへのレビュー・感想・評価

2.8
映画はだいたい最初の10分で没入できるかだと思っている。ファストだな?と思われるかもしれないが実際そうなのだ。そしてまた、10分で没入できなかったとしても観ているうちにガン!とあるシーンを境に映画館にいることを忘れるように映像の中に入り込む場合もある。映画館で映画を観て良かったな〜と思うのはだいたいこの2パターンだ。では、エブエブはどうだっただろうか?僕にはこのどちらともがなかった。あったのは刺激(それも、新しい、賞を獲ってしかるべしな映画として新しさを感じる刺激だ)とふつうの御涙頂戴だ。

最初の色調(彩度が高め)と諸々の家族の会話とカメラワークどれもが少し大層な気がする、この時点で新しい感じがすると同時に最初の10分でこの映画に入り込む契機を逃した。そこからは、お父さんがいきなりエージェントになり顔が豹変するシーン、税務署の女の人が敵になるシーンとマルチバースへの突入、娘の全ての法則を無視した縦横無尽の映像は素晴らしいものだったが何か画面を観ている感じが付き纏った。そうした内に、家族と世界の感動話になる。母は強し!でも良いし、家族の絆!でも良いし、でもなんか「家族になろうよ」なのだ。マルチバースで「家族になろうよ」を観させられている。紅白で「家族になろうよ」を観させられているあの感じだ。福山雅治は素晴らしい歌声を披露している。でも僕はその祝祭空間に没入できていない。エブエブはそんな映画でした。

以下、ストーリーの哲学的、思想的なノリを軽く書いておく。エブエブはポストモダンから実存主義(実存主義とはヒューマニズムである)をポストモダン的にやっていて主題としては申し分ないが、数学的帰納法のパラドックスみたいなやり方で、詭弁を多分に含んでいた。それも細かい設定の話ではなく根幹の思想と解決方法にこのパラドクスが潜んでいる。
 なぜ、絶対に娘がラスボスなのか?カオスを前提としてるのにこの時点でカオスじゃない。指がソーセージの世界でも、父親が全然別の人間でも娘は常に同じ存在でラスボス。これだとヒューマニズムの話が、家族の話に回収される。少なくとも“家族的なもの”までは落としてカオスを担保しないと成立しない。
 また、娘はなにも客観性がないカオスと対峙した時の絶望(ニヒリズム)を作中でしきりに母親に説得していたけど、ここで起こっていること、そしてラストの家族の和解からして毎回同じ親である運命論的な絶望(ニヒリズム)こそが主軸なのだ。この2つを娘のジョイは混同しており、そこで母親が運命論的な絶望を引き受ける方に誘いヒューマニズム最高!!!で終わる。これでは、ただの娘の反抗期の話以上の何物でもない。まず、なぜ年齢は固定なのだろうか?(年齢とかこういうのは細かいことなので気にしなくても良いが、言いたいことはカオスの扱いに常に不信感が残るということだ)
 
 しかし、どうだろうか?僕が最も良いと思った(そして多くの人にとってそうであろう)石のシーンでは、思弁的実在論の話にちょっと突っ込んでいる。だから、思想的に強度があって良いわけだ。人間以前以後の話をしている。人間なき世界、私たちが信じている物理法則さえも突如崩れ去る本来的にカオスなものであるという事実。マルチバースのおかげでこのような最先端のポストモダン的な思想に鑑賞者を連れて行ってくれるわけだ。そうやって遠い所まで運んでくれたのに、母親によってヒューマニズムの話に戻ってくる。肩透かしだ。「今、ここ」の肯定を人間以前以後にまで飛ばすことによって可能にする。そこまで、思想的な強度を上げることが主題とストーリー展開からして可能だったはずである。そこが、不充分であったからこそ、僕の脳内では「家族になろうよ」が流れたのだと思う。この結末ならば、ドーナッツに全てが喰われた方がまだこの映画のノリにあっている。

アカデミー賞獲ると良いね!とは思うけど、僕は獲らないと思った(追記:と言ってたら獲りました笑)本来僕の点数付け的に批評可能であるから3.0以上であるべき(存分に語れる映画)だが、明確にハマらなかった(観ている間ほぼずっと脳が退屈と言っている映画だった)ということを意志を持って示すためにこの点数にしている。
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