私はこーへ

吉原炎上の私はこーへのレビュー・感想・評価

吉原炎上(1987年製作の映画)
3.6
春夏秋冬パートに分かれており、133分の間目まぐるしくストーリーは展開していく。

春パートで右も左も分からない状態で若汐として吉原に入り、夏で着実に人気を獲得するもののこの街で真実を求めることが如何に難しいかを知り、秋にはこの街に取り憑かれ、この街に取り憑かれた末路である小花を見てもその歩みを止めることができない。最後のパートである冬には紫と名前を変え、競争に勝つことを意識し全てを捨て、信輔の結婚の申し出を断ってでも、豪華絢爛な花魁道中を催すことに全力を注ぐ。

目標を達成した瞬間に訪れる虚無と、本当の気持ち、それに気づき信輔の元へ走った時には時すでに遅く、失意のうちに吉原を出る。

春パートで、九重は若汐が人間味を捨てて正解を選んでしまうタイプの人間と見抜いており、「大変な子ですよ」(そして、つまり天職である)と言っていたのだと思う。

女性性的な哀愁やヒステリックなシーンにまずは目がいくが、彼女達は男性性的な競争社会に身を置き、その中で女性性そのものを売り物にしているため、引き裂かれ苦しんでいる。そう思えば春パートで仕事を全うし借金を返し、何も持たずに吉原をひっそり出た九重のようでしか上手くこの街を出れないのだと思うと後に続く悲劇的な展開も相まってやるせない。

では、あの時に信輔の結婚の申し出を受けていれば幸せな人生を過ごせたのだろうと思うが、そのようにはならなかったのでは無いか?と最後の炎上のきっかけとなる倒れたランプを眺める信輔を観て思った。

彼は結局御曹司としての体たらくさを父親から咎められ、それに苦しんで癒しを求め、金だけを余らせているために甘やかされに吉原へ行っていたのだと思う。若汐と一度も致さなかったのも痛客的な肥大化した自己のプライド故だ。

結局、彼も競争に絡め取られていたのであり、父親から勘当され渡された2千円を持って紫の元へ来た時点で、それは既に一種の心中であり、彼はそのすぐ後に紫が陥る虚無(人生の目標の喪失)に既に陥っていた。燃えている中、真顔で逃げない、むしろ安らぎを感じている信輔の顔に、この映画の、吉原という磁場の一から十まで救いの無い、嘘と本当を共有することができない関係を見た。

故にこの街は燃える。怨念が滞留し、吉原は常に炎上している。これが火となって現実に現象として現れたに過ぎないのだ。そして、そのカタルシスにしか救いは無い。そこで久乃は自身の栄華がいかに儚いものだったかを知るのである。
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