ぼっちザうぉっちゃー

すずめの戸締まりのぼっちザうぉっちゃーのネタバレレビュー・内容・結末

すずめの戸締まり(2022年製作の映画)
4.3

このレビューはネタバレを含みます

まず最初に大きく抱いた印象は、「ついにやるのか」という感じだった。
序盤からバンバン鳴りまくる警報音と震動で意識せざるを得ず、そして九州からスタートして大胆に北上し始めた時点で確信に変わり、中盤からはもう、そうか「あの日」「あの場所」で起こったことを描くんだな、と覚悟を決めて観ていた。

しかしそんな警戒態勢で観ていたわりに内容はしっかり面白くて、叩いた石橋が思ったよりいい音鳴ったから、渡ること自体はすっかり楽しんでしまっていたような、そんな感覚があった。
特に、動く椅子やデフォルメ強めの猫など、どこかジブリやディズニーっぽさもあるキャッチーなキャラクターが常に画面を賑わせていたことが大きくて、ファミリー層もしっかり引き込むような、引き入れようというような、そういう意志が感じられた。
また鈴芽を始めとして、開放的な性格の登場人物が多かったことも、ただシリアスにはさせない物語のトーンを担っている気がした。

そしてなにより鈴芽の旅、その道中が事件に次ぐ事件、火急の事態が連続し、退屈する暇がない。各地で挟まれる束の間の休息のような日常パートも、鈴芽が出会う女性陣の活力や鈴芽自身のアグレッシブさと空回りなどによって常に生き生きとした心地で過ぎていく。
そしてまた面白いのは作中で一番アクションしてるのが椅子であるということ。とにかくこいつが動きまくる。この小さな三脚の椅子が走ったり飛んだりするだけでなかなかに面白いアニメーションが観られる。あと負けじと走る鈴芽の無尽蔵な体力にも目を見張るものがあったりする。

そして新海印の超絶美麗な日常景色や細かい小物などの美術面でのクオリティはもう言うまでもなく、全編圧倒的な完成度である。ただ今作は比較的自然メインの風景が多く、『君の名は。』『天気の子』みたいな「現実以上に美しい都会」というような、世間的に言う「新海っぽさ」の瑞々しさに溢れた描写はほぼないので、やはりジブリに近い雰囲気を感じた。それでもしっかり常世やミミズのビジュアルなど、異質で独特なインパクトある画面も大いに楽しむことができた。

というように、椅子に変えられた草太を元に戻すため、日本各地で降りかかる災いを未然に防ぐため、あれよあれよという間に乗せられた鈴芽が駆けずり回るロードムービー、そのアニメーション作品としての面白さ、エンタメ性というもの自体は、恋心方面やリアリティ面にそこまで頓着しない私にとってそれなりに高かったように思う。

そういった、フィクションとして純粋に楽しめる部分と、最初に感じた「ついにやるのか」という印象、それらが混ざり合い掴みあぐねながら最終的にぼんやりと抱いた心持ちは、もう「辛いけど、悲しいけど、前を向いて生きよう」みたいな時代は終わったのかもしれない。というものだった。


あの日、私はまだ小学生で、あの場所からも遠く離れていたため、日本地図を映し続けるテレビを見ながら、なんだか漠然とすごく怖いことが起こっているんだという感覚しか抱いていなかったように思う。しかしそれから時は流れ、高校生の時授業中に、経験したことの無い揺れを体感したことがあった。その時机の下で身体を丸めながら咄嗟に頭に思い浮かんだのは、「“今日”なのか」ということだった。それは勿論単純に今日が命日かという陳腐な発想であったが、今となってはその時瞬時に頭の中を巡った酷くリアルな被害予想や身体を芯から凍り付かせた無常感は全て紛れもなく、「あの日」「あの場所」で起こった震災の記憶を触媒とする経験であったと感じられる。
随分と時が経ってから私は、自分が被災していたことに気付いたのだった。

こんな風にきっと、「あの日」を経験した誰もが、自分の中の喪失感とか寂莫感の根底に「トラウマ」みたいなものを抱えているのだと思う。より直接的に災いを被った人ならなおさらだ。
けれど、もう早いものであの日から十年が過ぎた。つまりあの日を知らぬ世代がすでにこの世に十年分いるわけだ。そしてまた十年という時は、私たち「知る世代」の心の皮をどうしようもなく分厚くした。中の傷は生のままに。
そういう意味でもはや、あの日の「辛さ」や「悲しさ」を跳ね返さんという意志で回る世界ではなくなったのかもしれない。そう感じた。
それは語り方の雰囲気や作中の登場人物から伝わってきたが、特にその存在や言葉をもってポスト震災を表していたのが芹澤朋也というキャラクターだと思う。
世代でもない昔の曲を鷹揚に掛け歌ったりする芹澤(鈴芽と草太が一緒に扉閉めてるの観て尾崎紀世彦の『また逢う日まで』を連想した私も大概だと思う。)にとって、鈴芽を取り巻く過去や複雑な家庭事情はただ「闇深い」という言葉で表せるものであって、緑の繁る被災地は「綺麗」と言える場所であったりする。それがある種、今の感覚というものなのかもしれないと考えざるを得なかった。

それでも私たちには、残酷なほどに美しい日々の中で、ふと災害を肌で感じたり凄惨な被害イメージを目にすることで、再び「傷跡」が開いてしまうことがあるのではないか。私が高校生の時に体験したあのほんの数秒のなかには、過去の受難を想起し、今に恐怖し、そして未来に絶望する。まるで「全ての時間」が流れていたのではないか。
今作における「扉」や「常世」はまさしくそれらを象徴するものだったんじゃないかと思う。
そしてその扉を締めるということは、常世から流れ込んでくるあらゆる時間のあらゆる感情を、拒絶するのでもなく、忘却するのでもなく、受け取ってそのうえで「お返しする」ということ。
あの日を経た私たちは扉が開くその度に、濁流のように膨大な思いに曝される運命にあって、ある意味で、「被災者」であると同時に、誰もが「閉じ師」としての側面も担わされているのかもしれない。

映画のラストで放たれるメッセージは至極当たり前でありつつ、ポスト「被災“後”」とも言える姿勢が感じられるものであった。
過去が辛いから、悲しいからといって、闇雲に前を向いたところでそこには何もない。過去を経た私たち、未来の知れない私たち、に出来ることはせめて振り向いて「今は大丈夫」と「未来はきっと大丈夫」を、過去に向かい胸を張って呼びかけること。その過去に貰った「今」を、大切にすること。

それからやっと戸を締めて、振り返り前を向きようやく、「行ってきます」をするのだ。
そうして踏み出した「今」にこそ、僕らは生きている。「おかえり」を言える場所で、生きていく。

何度また神が気まぐれに扉を開け放とうと、ありったけの力で「お返し」してやれる。
鍵穴を呼ぶ祈りの行方と、それを封じる鍵の所在を、見失わないかぎり。

僕らはきっと、大丈夫だ。