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TAR/ターのKuutaのレビュー・感想・評価

TAR/ター(2022年製作の映画)
4.2
答えのない曲の解釈に苦しむ今作には、どちらとも取れる表現が散りばめられており、鑑賞者によって印象は真逆になる。ラストシーンはアジア蔑視にも、西洋発祥のハイカルチャーに中指を突き立てる表現にも思える(中国市場ではレコードを販売できる、というくだりを加味しても、私は後者)。ぬいぐるみを届けようとした動機は親切心にも、下心にも思える(これも私は後者)。

直接的なハラスメント描写は避けられ、ターの真意を覆い隠す一方、手の甲にキスされた直後、それを自らの口元に持っていって匂いを嗅いでニヤける姿は、セクハラ野郎以外の何者でもない。

私の評価軸は基本的に、映画だから描けるものが映っているかどうかにあり、その点、今作は十分に満足できる内容だった。「映画」に苦しめられるキャラクターにアケルマン作品を連想しつつ、近年の作品で近いと感じたのは「ファーザー」と「ザ・メニュー」。

指揮者は右手で時間、左手で形をつくるという。タイミングとフレーミング=編集と撮影を操り、時間を支配したリディアの映像に、前半の観客は付き合わされる。

練習日を決め、貧乏ゆすりを許さない。右手でボールペンのボタンをカチャカチャ鳴らすセバスチャンは耳障りな存在だ。インタビューや講義シーンの長回し。相手の言葉を遮るような物言い、アクションを先導する彼女にカメラは追従する。カットはなかなか割られない。音の小さな電気自動車が移動に使われているのも印象的で、リディアの映像に、意図しない音は存在しない。映像が主、音が従の前半部。

こうして映画と、クラシック音楽業界のシステムを乗りこなすリディアだったが、「他人の視線に晒され、分裂した姿」を示す冒頭に顕著なように、彼女のペルソナは徐々に崩壊していく。

長調から短調へ変わり、妙な音が繰り返される不眠シーン。後半は「リディアの映像」が「映像に従おうとしない音」に逆襲に遭う。この映画の前に「はなればなれに」を見ていたので、より面白く感じた。

リディアを遮って先にランチを注文するオルガ。ソロを決めるオーディションでは、彼女の演奏時、カメラがじわじわと寄る。オルガの音に、リディアの映像が揺さぶられている。広報にクリスタの自殺を伝えられる場面では、リディア入室前の電話の声が入っており、もはや映像はリディア目線に独占されていない。リディアは不快なアラームを新曲に取り込もうとするが上手くいかず、むしろ練習時間を避けるよう行動する隣人の家族に激昂する。

「時差ボケ」に苦しみながら、乱れた編集やカメラワーク、無限のノイズとしてのSNS社会、統御できない他者と時間の波(老いと死)に押し流されていく。時間経過には抗えない。長回しを切り刻んだ告発動画は、まさにクラシックな映画の死を示している。

それでもタクトを握る姿は純粋さの表れか、執着か。表情は穏やかにも見える。地獄の黙示録のくだり、シンプルに環境破壊なんだけど、無性に涙腺が刺激された。彼女が見ていたバーンスタインのビデオも、私の好きなクラシック映画も、泥水の底でいいから文化の裏側で生き延びてほしいと思った。

「まだ彼女に良心はあるのか?」とのフランチェスカの問いに、オルガは「恐らく」と含みを持って返信していた。変化を受け入れ適応するのか、同じ失敗を繰り返すのかは分からない。「時間です」と一方的に告げられるようになった彼女の楽屋には、ペルソナが消えるどころか、無限に続く鏡が広がっている。彼女の表情ではなく、新たな観客を捉えるラストは、文化の担い手が本来誰なのかを示す意味がある、と私は受け取った。

リディアは権威主義的な男社会に適応し過ぎた人物であり、女性と関係を持ち、男性的な振る舞いでのし上がったことが仄めかされる。ただ、あの立場の女性ならではの政治的な狡猾さのようなものは見えず、やや物足りなく感じた。

その点、パンフレットの補足が充実しており(一番最初に音楽一覧が載っていたり、本編同様イレギュラーな構成)、ベルリンフィルとナチスを巡る歴史を踏まえ、「社会の公器」たるオーケストラの性質を性的マイノリティのリディアが利用したのでは、との前島秀国氏の指摘が特に興味深かった。84点。
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