Kuuta

SELF AND OTHERSのKuutaのレビュー・感想・評価

SELF AND OTHERS(2000年製作の映画)
4.2
長年見たかった作品。パンフ含めて優れた文章がいっぱいある映画だけど私なりに。二重構造になっていると思った。

①牛腸茂雄のSELF AND OTHERS
佐藤真は「牛腸の身体性を根拠に作品を解釈することへの自戒がある」と言っているけれど、病気の影響で背中が曲がり、低い視点から撮影していた牛腸が、他者から見られることを内面化しながら活動してきた、というのは、基本的な理解としては外れていないと思う。(不良少年との交際をきっかけに登校拒否になり、親や学校との関係が一変した少女のエピソード)

被写体から見られることが常だった牛腸が、被写体を眼差すための距離があの正対のフルショットであって、主体と客体が等距離に、互いに見合う鏡のような境界に、彼の写真は現れる。撮影者が被写体と同じ土俵に立たされるという、特殊な距離を設定している。

佐藤は写真内の被写体を、写真に忠実に画面中央に配し、写真集をめくるように淡々と並べていく。こうして映画の観客は、被写体=OTHERSから眼差される感覚、つまり、牛腸の写真集を見る感覚を追体験することができる。

②佐藤真のSELF AND OTHERS
これだけなら写真集を見れば済むのだが、今作は牛腸の人生を追うことで、牛腸という「被写体」からも眼差される感覚を味わうことになる。写真集では主体(こちら側)だった牛腸を客体(あちら側)に移すことで、佐藤は写真集SELF AND OTHERSの精神を踏襲しながら、彼との対話を試みる。ここがこの映画の凄みだ。

死期が迫る中で録音された彼の肉声は一番分かりやすく、ドキュメンタリーの題材に過ぎなかった牛腸を、観客を見つめ直す存在として提示する。見る/見られる関係の逆転がスリリングだ。

他にも例えば、「牛腸が見た日常風景」を追体験するカメラは、①を撮った主体としての牛腸を再現すると同時に、「こんな牛腸がいたのだろう」と観客に考えさせ、客体としての牛腸を立ち上げる効果があるだろう。

①と②を繋ぐハブとなるのが冒頭などに見られる「写真のような映像」で、フィックスの画面に大きな変化はなくても、水面や草木は揺れ続け、電車や人や車は画面を横切っていく。変化の予感、ふと見つめ返される予感に満ちた緊張が、牛腸と佐藤(=観客)、過去と現在を対話可能な距離に置く。

・写真集の最後の写真が好き。子供たちが白線を超え、霧の中へ走り出している。子供時代からの離脱、被写体にされたことからの離脱、この世からの離脱。色んなことを想起させられる。

・「寝ても覚めても」で牛腸茂雄を知って以来この映画がずっと観たかった。演技と演技でないものの境界を求める濱口竜介が、主観でも客観でもない世界を切り取る窓として、不自然な正対ショットを使う意図がクリアになった気がした

・というか音声のくだりはめちゃくちゃ「夜明けのすべて」では
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