恋愛という観念
2022年 フランス作品
フランソワ・オゾン監督の感性は好きだ。色鮮やかな映像と、テンポのよいストーリー展開、BGMもよかった。けれど、人と関係性が…。
主人公ピーター・フォン・カントと、彼をめぐるアミール、シドニーやカールとの関係性には共感するのが難しかった。稀代の芸術家ゆえの感性は、凡人には理解しがたかったのかもしれない。
彼が、必死に探し求めていた愛について考えてみた。
『私の幸福論』(福田恆存)
▶恋愛について
恋愛とは麻疹のようなものだといった人があります。それは二様の意味において、もっともだと思います。第一に、一昔前までは麻疹は人生に一度は経験しなければならぬものであり、第二に、伝染性のものだからです。
すなわち麻疹は二度とかかる病気ではないが、恋愛のほうは、そうはいかない。何度でもかかる病気であります。しかも、一度、その味を覚えると何度でもかかりたくなる快い病気であるともいえます。
恋愛が病気であるということには、だいぶ異論がありましょうが、快い病気ということなら、あまり文句も出ますまい。病気というと、なんとなく忌むべきことのように思われがちですが、一概にそうもいえません。
大病や危険な病気なら話は別ですが、二三日ぶらぶらしていれば癒る鼻風邪程度のものは、なるほどある程度の不快感を伴いはするものの、ときには悪くないなという気もちが誰にもあるものです。ことに忙しい人とか、平板で退屈な仕事に従事している人など、たまに病気でもして、日なたぼっこでもしながら、家の人に甘えて数日を過ごしたいという気にもなるでしょう。(中略)
恋愛にもそれに似た効用があります。失恋はもとより、成功した恋愛にも、鼻風邪程度の、いや、それ以上の苦痛は避けがたいでしょう。が、たとえ失恋にしても、平板な勤めが休めるといった程度の開放感があり、その苦痛をいたわられ、周囲の人に甘えうるという程度の快感があります。つまり、病気への逃避と同様の意味において、恋愛への逃避がもくろまれるのです。(中略)
さて、私は恋愛が麻疹に似ている第二の理由として、その伝染性をあげました。男女ともある年齢に達すると、すなわち、いわゆる思春期というものにはいると、おたがいに異性を求めるようになる。ふつうそう考えられております。この事実の根底には、男女の性欲というものがあることは申すまでもありません。性欲が異性を必要とするのです。が、恋愛は性欲に基づいているにしても、恋愛即性欲ではありません。(中略)
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フランソワ・オゾン監督は、本作に関するインタビューでこう答えている。
“新しい作品を作りたい、という衝動は、別の欲望から誘発されることがあります。例えば誰かを愛した時に、その感情的な高まりが創作意欲に繋がる。セックスの欲望と創作意欲が同じこともあるんです。”
なるほど、芸術家にとっては、新しい作品の創作意欲が性欲と似た衝動といった側面もあるんだろうか。
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いいかえれば、恋愛は精神的なものであり、観念的なものであります。そして恋愛の伝染性というべき性格は、この観念的ということから生じるのだといえましょう。(中略)
それは一種の捏造であります。が、それだからといって、私は恋愛を軽蔑しはしません。観念的、捏造的な性格は、元来、恋愛につきものであります。それなくして恋愛は成りたちません。もし恋愛からそういう人工的な要素を剥ぎとってしまえば、それは単純な性欲に還元してしまうでしょう。
もっとも、この性欲でさえ、前章で申しあげたように、男女の差、個人の差によって、その発現のしかたや表れかたや度合いに相違があるにもかかわらず、ひとびとはそれを一様のものと考えやすいのです。
すなわち、性欲でさえ、かならずしも自然発生的なものではなく、観念によって導きだされる傾向があり、ことに今日では、早くそれを知って大人になりたいという観念に支配されがちです。まして、恋愛となれば、そういう傾向をもちやすいのも当然でありましょう。
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「人は愛するものを殺す」
観念の中で。
本作には、一様ではない愛を求める性欲や恋愛の一つの在り様が描かれている。