そーた

カリガリ博士のそーたのレビュー・感想・評価

カリガリ博士(1920年製作の映画)
3.0
歪み、その魅力

ドイツ表現主義という芸術運動があります。
20世紀の初頭に起こったこの運動は内面の表現を模索しました。

印象派が外に対象を求めたスタンスとは対称的です。

ここで、印象主義が自然の観察を、表現主義が内面性の思索を、と対比させてみます。
するとこの二つの運動、方向性は違えど目的意識は同じようなんです。

どちらも対象をじっくりと分析して、正しく記述しようとしている点で似ているわけです。

でもね、僕は後者の表現主義はあまり好きじゃないんですね。

なんだか、よく分からないってのが正直な気持ち。

それに比べ、印象派は分かりやすいんですよ。
光の動き、変化を必死に追っている。

今まで分かりにくい表現主義の絵画を僕は敬遠気味だったわけです。

そんなこんなで、カリガリ博士を観ました。

狂った博士とその助手が起こす連続殺人。そしてその真相を追う青年の話です。

ラストに幾重にもどんでん返しが用意されているけれど、まぁこんなもんかと飽食気味の現代人には物足りないストーリー。

でもストーリーよりも、その世界観が強烈な印象を残します。

この映画、何を隠そうドイツ表現主義の映画なんですね。

ドイツ表現主義の運動から遅れること20年。
映画という新しい芸術手法に表現主義が飛び火した形です。

この映画を淀川長治さんはハイカラと表現しました。

芸術性を評価したわけです。

でも、後の映画人達はこの映画からホラーの要素を吸い取ってしまった。

ハイカラか、ホラーか。

捉え方の違いは、カリガリ博士で組まれたセットの異様さに原因があります。

歪んだ空間に異様な装飾。

紛れもなく表現主義的なんです。

それで、表現主義の対象である内面性について考えてみます。

内面性って心や感情のことですね。

揺れ動いています。
いびつで歪んでます。

それに不安を感じればホラーなんです。
それを芸術と捉えればハイカラなんです。

揺れ動き、形の定まらないものを表現する。

人間が到達した1つの目的地な気がします。

印象派だって形のない、揺れ動く光を追い求めたんですもん。

なんだか表現主義が少しだけ分かった気がしました。

ピーマンのうまさに気づいたような瞬間です。
そーた

そーた