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“それ”がいる森の0000のレビュー・感想・評価

“それ”がいる森(2022年製作の映画)
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ホラー映画の評判やレビューっていうのはけっこう当てにならなくて、例えば『クロユリ団地』とか、かなりの力作なのに散々な言われようで、何を作っても正当な評価がないならそらやる気もなくなるわみたいなとこもある。

『ユリイカ2022年9月号特集Jホラーの現在』を読んでいたら批評家の仲山ひふみという方の文章で、『呪怨』シリーズのツッコミどころみたいな話に触れたあと、「こういった疑問は、『呪怨シリーズ』を見たが設定の破綻で興を削がれてあまり怖いとは感じられなかったという感想を頼まれてもいないのに喋りたがる普通の映画好きとカテゴライズされるような人々が、その設定とはどういうものかを説明してくれる場合に言うであろうと予想される内容の一例である。私たちはこういう懐疑的な感想を述べることによって『私はホラーを怖いと感じない、だからホラーのような非-文化的ジャンルに惑わされないという意味で私は文化的である、つまり大人である』ということをしばしばパフォーマティブに言明しておきたくなる衝動に駆られる。それを私たちは感想修正主義と呼んでいたのだった。」と書いていて、ワロタ。言い得て妙で。要はみんなつい「メイ怖くないもん!」と言いたがるし、それをもって評価にしてしまいたがる。ホラーはそういうとこあるのでホラー作家はその点で災難である。(逆に権威ある人とか有識者とかみんなが「怖い怖い」とお墨付きを与えてる作品には安心して「怖い」と同調し身を委ね群がる、みたいなのもあると思う。)

同じ『ユリイカ』でJホラーの父こと鶴田法男は、当初は不満だったテレビのあの吾郎ちゃんの「ほん怖」の「誰でも楽しめるソフトホラー」という側面こそが、今も番組が続く秘訣で、そして後にJホラー再燃の火種となる現在のJホラー観客の予備軍を育てたのではないかという推測を書いている。
あと、そのJホラー再燃の映画『犬鳴村』の観客の年齢層が予想以上に低かったらしいという話、そしてかつて自作『リング0』公開時も同様の話を耳にしたということ、「禍々しさ」「おぞましさ」を追求する作家たち側と低年齢層化する観客との乖離がJホラーがかつて行き詰まった理由なのではないか、とも書いている。

また同じ『ユリイカ』で小説家の芦花公園という方は、ある映画会社のプロデューサーに、Jホラーに関して「中高生が夏休みに観に来るような映画が望ましい」「貞子のようなアイコンが欲しい」と言われたと書いていて、この方はやはりそういうソフトホラー的なものには否定的なニュアンスで、「禍々しさ」「おぞましさ」のファンダメンタルなJホラーを求めるような論調。他にも何人かの人の文章でソフトホラー否定のような意見が散見され、鶴田法男だけが擁護派(?)という感じだった。

ソフトであるべきか否かはまあおいといて(なぜなら当の貞子や伽耶子というアイコンを生んだ『リング』や『呪怨』がソフトホラーって感じではなくハードホラー(?)だけどあれらはちゃんと若者にウケたわけで、要はやっぱりちゃんとエンタメとして面白ければどんだけ怖かろうと怖すぎようと問題ないのだろうと思われる)。上のような話を読んでいて個人的には、ホラーというジャンルはなんて幸福でやりがいのある、取り組みがいのあるジャンルなのだろうかという思いを新たにした。その「乖離」の問題含めて。要はそれって若者を惹きつけるジャンルだってことで。いちばん多感な時期の中高生とかの世代の観客が映画館にワイワイ見に来てくれるジャンル。この前プーさんの映画が流行ったけどあれもプーさんだから女子高生が見に行ったんじゃなくてプーさんのホラーだから見に行ったわけで。プーさん見てないし出来は知らないけど、例えばそういうフックだけで客を、しかも若者を呼べるジャンル。そのことに目を向けずその幸運を肯定せず、一方ではその女子高生たちすらがっかりするようなものや、あるいは見た後何にも残らないような映画を目先の利益を優先して作り続け、もう一方では実際の所どこに向けて誰に褒められたくてそれを作るのかというのがよくわからない「おぞましさ」「禍々しさ」の過激度とか、「怖さに対するストイックさ」みたいな、結局そんなのそういう「言葉」でしかない空っぽのスローガンみたいなものをホラーファンは求めているのだということになっていて、その乖離状態でJホラーが再燃したということになっていて、それは血を吐きながら続ける悲しいマラソンですよ。
(ていうか、こう言っちゃあれだけど、いい歳してホラーなんぞ見てああだこうだ言ってるオッサンのオタクのために今さらJホラー作らんでもええがな、JKのためにホラー作ったらええがな、って単純に思う。一旦オッサンは忘れて、今この状況で何ができるのかというのを考えるべきで。)

で、そんな中で中田秀夫もある種の悲しいマラソンを血を吐きながら続けていて、思えば『事故物件』のあの変なラスボスみたいなキャラクターも商業的要請による「アイコン」の試みなんだけど、あれもまあもうちょっとなんかこう……もうちょっとなんとかなったやろ……みたいなとこあったが。

でこの『それがいる森』という映画に関しては『事故物件』などが比べものにならないくらい、単純に演出というものがぜんぜんなされていなくて、そういうのがもう証拠のように出てしまっているところが、例えば、「熊(クマ)」のイントネーションが統一されてない。とか、他に例えば「まさかそれを証明するために天源森に?」という台詞は「天源森に?」のほうを強めて発話しないと前後の文脈と意味が通らないのに「それを証明するために」を強調して言ってしまっている。とか。そういう些細なところに出てしまってて(些細とはいえそんな基本すらおろそかっていうのはよっぽどの雑さ)。些細でないところも、まあ全体を通して安いテレビドラマとかコント番組とかと同じような作りになっていて(つまり、あまり詰められた形跡のない脚本を、演出というものをほとんど介さずにただ最低限のセオリー通りに撮って繋ぐだけ、という映像化)、そういうのは何が「映画」と違うのかというとまあ予算とそしてなによりもスケジュールなんだと思うのだけど、中田秀夫はそういう仕事を受けてしまっているということ。三池崇史が「来た仕事全部受ける主義」なのと同じような「職人」的なことではあるけど三池がその天才的な監督力、交通整理力で各部署の仕事を管理統合するああいう手腕とも違う、正直何の生産性もないような安請け合いなだけの悲しい仕事をやってしまってて、作り手側とか出資側が少なくとも大きく損はしない、大きく得もしないけどまあトントンで、ラッキーだったらワンチャンあるかもくらいの感じで、でも観客側は誰も得をしない、そんな仕事。ギリ破綻させず形だけそれなりっぽく仕上げるけど、そのうちジャンルや業界の衰退に繋がるようなことをやってる、っていう。姉歯建築すれすれのごとき。もちろん作家生命もこのままだと先細っていき限界に行き着くはず。悲しいけどそれもまた映画。それもまた人生。

残念ながらこれはもはやソフトホラーでも怖ポップでもなんでもない、「感想修正主義」とか関係ない単なるクソだった。業界からひり出された悲しいせつなグソだった。

いや実際のところこの程度の出来の映画は別に珍しいものではない、が、このキャスティング、宣伝規模、公開規模でこれは……。プロダクションデザインとか脚本の方向性とか、それであのエンドクレジットの実録系の映像とか、何がどうなったから結果こう完成したんだっていうのをドキュメンタリーやルポにしてくれたらよほど商業映画とは何なのかという教材になるので、『ハリウッド監督学入門』のような映画(見てないけども)を作った中田監督にそういうところを明らかにしてほしい。どうせこんな映画を作ってるならついでに大衆の映画崇拝芸術信仰の幼稚な固定観念を打ち壊してくれたらなんぼか価値がある。

恐怖リアクションの付け方だけはマジの職人芸を感じる。
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