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ザリガニの鳴くところのmatchypotterのレビュー・感想・評価

ザリガニの鳴くところ(2022年製作の映画)
3.8
なんだろう、なんかうまく説明できないけど「これが“ミステリー”と言うのか」と思える作品だった。

“どんでん返し”と言うにも目から鱗のような話でもなく、“衝撃の結末”と言うにもスカッとするような話でもない。

“湿地の娘”。このパワーワード。誰もがこのワードに取り込まれる作品。
これをある意味順当に、ある意味逆手にとって、良いように惑わされ、良いように信じさせられる巧妙な描き方。

原作は本屋さん大賞にもなるベストセラー。
このじめじめとしたイメージが付き纏う“湿地”に、いかにもワケアリでそういう扱いをされざるを得ないような女性。

突如、沼地に横たわる死体が発見され、その犯人にその“湿地の娘”とされ、捕まり、裁判が始まる。

その裁判の公判の模様と弁護士との会話から回想しながら彼女の足跡と、真相が明らかになっていく、、、。

彼女の生い立ち、“湿地”で暮らし続ける様子、数少ない出会いと別れ。
人生のほとんどをその“湿地”のほとりの人も寄り付かないような一軒家で過ごす彼女。

この生い立ちや様相が、彼女以外にとってはただならぬ空気にしか写らず、俗世間と距離が開いているからこその疑い。

「そんなところで、そんな変死体がみつかるなんて、そんな彼女がやったに違いない」

俗世間側からすれば、既定路線としか思えない公判。

それを、彼女のことを知る僅かな隣人が毅然とした態度で既定路線の公判に立ち向かう。

「こんな彼女が、どうしてそんなことを、しようものか」
「“湿地の娘”とレッテルを貼り、彼女のことをよく知ろうともせず、気味悪がって近づかず、ただその見た目とイメージだけで外野からただただ蔑むだけの行為に何の意味があるのか」

彼女から溢れる優しさや、そうした生い立ちやレッテルに苦しむ姿、それが負の連鎖を生み、結果的に彼女も俗世間側も、どちらかともなく決して交わることのない別世界で生きているかのような断絶に。

俗世間側からすれば、ある種の“七不思議”と化してしまった“湿地の娘”にかけられた疑いと、事実としてそこにあった死体に対して、腫れ物に触るかのようなアプローチ。

しかし、そこにはいつでも根強くある先入観。
この先入観を紐解き、溶かすことがこの公判における鍵であり、一連の次元の真相となる。

幼い頃から頼る雑貨店の黒人夫婦。両親に捨てられてからは彼女にとっての良き理解者。
彼女の孤独で自然に囲まれた自由さに惹かれる2人の男。

この片方の男が割と育ちの良い男で、そんな男が彼女と関係があることも発覚し、その男が死体になることも、彼女に決定的な容疑が向く理由の1つ。

もはや、疑いの余地もないのではないか、、、の既定路線の裁判が紆余曲折し始め、親身になる優しき弁護士の奮闘もあり、変わり始める。

この変化、そしてこの結果が、何を意味するのか。
そして、それに“湿地の娘”は何を思うか。

1950〜60年代のカロライナが舞台で、“湿地”と言うだけあって緑が深く瑞々しい。もはやジャングルに近い目の前に広がる自然の原風景。

このロケーションから、彼女のアイデンティティやら、何から何まで“湿地”と“湿地の女”のイメージが観てるこっちにも刷り込まれていく不気味さが際立つミステリー。


F:1909
M:3023
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