凛太郎は元柚彦

リバー、流れないでよの凛太郎は元柚彦のレビュー・感想・評価

リバー、流れないでよ(2023年製作の映画)
2.0
映画と演劇は明確にちがう。
映画には映画にしか成せない魔法があり、演劇には演劇にか成せない夢がある。演劇脚本を無理やり映画にしても当然ながら映画の魔法はかかってはくれない。
さて、映画監督はなぜ演劇ではなく、カメラで物語を映しだすことを選ぶのだろうか?
そして、俺たちはなぜ映画を見て魔法にでもかかったようなカタルシスを感じるのだろうか?

劇中、2分のループで考えうるあらゆるアイデアが大喜利のように飛び出てくるが、これら全てが茶番にしか思えず終始しんどかった。ドタバタコメディを茶番と言い換えてしまえばそれまでなのだが、せめてギャグのセンスやリアリティに徹した感情的なシーンがあればかなり違ったはず。あるいは、それぞれのキャラの人生背景に深みがあれば、もっと物語自体に興味が持てたはず。どの人物もなんだか取ってつけたような、脚本やテーマを成立させるために存在してる血の通ってない操り人形にしかみえないし、事実そうだと思う。大前提の話だが、そこに人間が存在してこそのドラマなので、これを〝人間ドラマ〟と呼ぶのは少々浅はかではなかろうか。
ギャグセンに関しては、舞台役者たちが大袈裟な芝居で古臭くてサムい演劇式ウケ狙いをやり続けていて、これをスクリーンで冷静に見るとこんなに白けてしまうのか、と感じた。改めていうが、ドラマ映画は、ある程度のリアルがないと観客は笑えないし共感できないし興味がもてない媒体である。
感情的なシーンという点に関しては、たとえば「ミコトちゃんが何もせず2分間川を眺め続けるだけの沈黙で感情を映すシーン」などの映画ならではのカタルシスを表現してほしかった。フィルムに真っ向から向き合うつもりがないならわざわざ演劇脚本を〝映画〟にする必要はないと断じて言いたい。
もちろん俺たちは映画を見ているのだから映画でしか成し得ない芸術を求めている。これじゃ、舞台演劇ではループの演出が不可能なので仕方なく映画でやりました…といったような印象を受けてしまう。
わざわざ「貴船」という舞台や大人数のキャストを使わずとも、たとえばだが、何もない荒野のハイウェイで追う者と追われる者の二人がループに囚われる、という低予算で簡素なセットでも映画を愛していればもっと人間的で感情的な素晴らしい映画が撮れるのではないか…と俺は考えてしまうわけである。

追記:登場人物が全員シナリオライターの操り人形にしかみえない件にも繋がるが、ループしてるのに雪が降ったり止んだりしてしまう撮影現場の裏事情を、それっぽい説明を一言言わせて物語に組み込もうとしてる辺り、全てがシナリオライターのご都合主義で物語自体にも血が通ってないと思ってしまう。
辻褄を合わせるために──映画としてテーマを与えるために──全てのドラマが計算されて後付けで存在しているのだとしたら、俺はとても悲しい。