ケリー・ライカート監督の現時点最新作。
いつものことだが、同監督作品は非常に言語化が難しい。
どの作品も、観終わった後、「確実に何らかのエモーションを掻き立てられているがどう言葉にしたら良いか分からないような感情」になっちゃう。本作も同様。
前作『ファースト・カウ』レビューにおいて、その要因を「劇伴(音楽)を排し、事実だけを淡々と描写することにより、妙に演出された「感傷」ではなく人間の「感情」そのものを浮き彫りにしようとしている」というところに求めたが、確かに本作においてもそういうところがあるような気がする。
また、本作を観て思ったのは、「茶道」みたいな映画だなぁということ。
茶道で追求するもののうち、一つに「庭(自然)の美しさや、季節の移ろいを感じること」というのがあると思う。
自然や季節の移ろいなどは、常に自身の周囲にあるものではあるが、私たちは日々の喧騒に飲まれてしまっている結果、普段なかなかそこに目をやったり思いを馳せたりすることは難しい。
そんな中茶道では、「茶室」という演出された空間を創出し、私たちが自然や季節と向き合うための「場」を提供する。
さて、本作を始め多くのケリー・ライカート作品で描かれるのは「何気ない日常」である。
その日常の中には、とても些細な嬉しいことや哀しいこと、美しいものや醜いものが溢れているが、私たちはそういった細かな当たり前の物事に目を向けられないまま日々を過ごしがちである?
同監督は、上述した通りの演出手法によって、我々が、日常の中に埋もれている「些細だけれど自分の生にとって意義深いもの」に
改めて視線を投げかけるような「場」を想出し、提供してくれているように思える。
主人公のリジーを通して描いたように、人に言うまでもないがだからこそ発散しにくいネガティブな要因が蓄積して気が滅入ることなんて誰にでもあるし、
そしてそれは、「鳩が飛び立った」みたいな何ということもない事象で途端に晴れたりもする。
それは他人から観るとたしいたことではない、記憶にすら残らないような出来事ではあるぎ、自分自身にとっては映画の中の一大スペクタクルと同じような大きな意味を持ってたりする。
こういった、普段は当たり前過ぎて意識のテーブルに上がってこない些細な出来事も、改めて目を向けてみると、私たちの感情を左右し、そして時には人生を豊かにしてくれる意義深くてミラクルなものだよね、と、同監督はそんなメッセージを発しているように見えてならない。
ケリー・ライカート作品を観た後は、自身の「どう言葉にしたら良いか分からない感情」を消化したくて、こういうふうに色々と思いが膨らんでしまう。
そういった意味で本作も、同監督らしさに溢れた素敵な作品だと思いました。