【熊?はいる】
※レビュータイトルは、最近の「熊はいない」という映画にちょいと通じるところがあったので、パロってみました。
ヨーロッパに限らず日本でも似たようなことはあるんじゃないかと思う。
公にメディアなんかで批判が広がったりすると声をひそめることもあるが、科学的な根拠もないことを、さも実証的な証左として持ち出して批判を展開したりする。
それが如何に教育の程度が低いかということか自覚がないのだ。
スリランカ人の手は汚いとか。
スリランカ人は得体の知れないウィルスを媒介するとか。
欧米でコロナ後にアジア人差別が広がったのと同じだ。
だが、本当に彼らが恐れているのは、実は彼らは勤勉で文句も言わずに働いて、自分たちの担っていた仕事を含む社会での役割を侵食してしまうということだろう。
東欧の人々はヨーロッパの他の地域に行けば、経験も知識もなく、勤勉さはあったとしても、知識や経験の欠如で効率的とは見做されない存在だったりする。
更に、ドイツやフランスの単純作業を請け負って、彼らの就業機会を奪う相手として見做されることもあるのだ。
本質は同じじゃないのか。
こうして亀裂は深まるのだ。
僕には東欧出身の友人がいて、彼は母国語の他に英語、フランス語、ドイツ語、そして、日本語が出来る。片言じゃなく、読み書きもだ。彼は日本の難関の大学の大学院の修士を終えていて、学んだ分野とは異なる仕事な就いているけれども、企業としては欲しい人材のはずだが、どうも日本企業には敬遠されて、外資で働いている。
半分似ている気がする。
イタリアではポピュリズムの台頭を受けて、極右政党が第1党になったけれども、結局、欧州連合(EU)との明らかな対立は回避されている。
ハンガリーも大衆迎合的な大統領がロシアからのエネルギー輸入を続けているが、ウクライナ戦争をめぐるEUとの決定的な対立は避けている。
きっとこうしたことも市民の不満になっているのだと思うが、如何ともし難いのだ。
個人的には、公的資金の活用方法を頭ごなしに決めず、弾力的に利用できるようにしたらどうかと思う。
その方が、レジリエントな社会の構築につながる気がする。
分断を放置すれば、更に分断は深まる。
そして、暴力的になれば、更に隅に追いやられるのは明らかな気がする。
くだらない差別感情を排除して歩み寄る方がよほど人間的で発展的な気がする。