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私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスターのnetfilmsのレビュー・感想・評価

3.8
 予告編を観る度に、はいはい『クリスマス・ストーリー』の姉(アンヌ・コンシニ)と弟(マチュー・アマルリック)の変奏ねとわかったような口を利いていたのだが、もっと捻じれたじめっとした感触が終始続く。はっきり言って相当変な映画で、捉えどころがない。第一、舞台女優の姉アリス(マリオン・コティヤール)と詩人の弟ルイ(メルヴィル・プポー)がわだかまっている理由がさっぱりわからない。何がきっかけとなり、ここまで関係性が修復不可能なところまで行き着いてしまったのか?放蕩息子の帰還で始まるデプレシャンの映画というのは血の繋がりがあるからこそややこしい。多くの場合、才能を持った人々の集まりの中に若くして死んだ家族がいてという歪なファミリー・トゥリーを見せるのがこれまでのデプレシャンのフィルモグラフィの定型だとしたら、今回もルイの大事な息子を失う場面からスタートする。然しながら今作が歪なのは死の光景が次々に連鎖して行くことにある。血縁のないどこかの18歳の自傷的な死が遠因となり、やがて兄弟の両親にも厄災が降りかかる。人生というのはこうまで残酷なものなのかと呆気に取られながら、18歳の少女の自傷的な事故死というのは、アリスにも波及する。明らかに情緒不安定なアリスの開演前の自傷や記者の前での鼻血は、彼女自身が制御出来ずにいる感情の揺らぎが死者と応答している。一方ルイの方もやはり『クリスマス・ストーリー』同様にわだかまるのは姉だけではなく母も同様で、父は見舞えても母の病室だけには罪悪感からかどうしても入ることが出来ない。

 18歳の死と入れ子構造のようにして登場するルーマニア人のルチアは、明らかにジョン・カサヴェテスの傑作『オープニング・ナイト』を彷彿とさせるのだが、来日記念ディスカッションで連日登壇するデプレシャンの口からはウディ・アレンの『私の中のもうひとりの私』を想いながら描いたという心底ギョッとするような答えが返って来て驚いた。しかし『オープニング・ナイト』も『私の中のもうひとりの私』もこわれゆく女ジーナ・ローランズによる一人芝居だと思えば、アリスにとってルチアは彼女の少女性を解き放つための一種のトリガーだったようにも思えて来る。現に彼女が空腹で倒れなければ、あのスーパーマーケットでの弟との驚くような再会の場面など訪れなかったのだから。明らかに姉は弟の才能に嫉妬し、笑顔で最悪な言葉を吐けるほど正気を失っているわけだが、理性的に見えた弟ルイも何かが完全に破綻している。中盤まで観ているとジョン・カサヴェテスの傑作『オープニング・ナイト』から何やら傑作『ラヴ・ストリームス』に大胆にバトンを繋いだような作品に思えてならない。気の触れたアリスは弟ルイを憎んで憎んで憎みながら、肝心な弟を憎んだ最初の動機の部分をすっかり思い出せないほど正気を失っている。中盤、抗うつ剤を規定量の範囲を超える致死量受け取るアリスも、地下街のプッシャーからアヘンを受け取りハイになるルイも同じくらいの思いっきりの自傷行為で、亡き両親に姉弟なりに報いようとする。

 メルヴィル・プポーのあの衝撃の飛行シーンには心底唖然とさせられた。死をも超越した世界で蠢く狂人ルイは真冬に嘔吐しながら、全てから解放された(赦された)弟はもう一度空を飛べるのかどうかビルの上から地面をじっと見つめ続ける。そして昨日までいがみ合った姉の布団に全裸で入るという頭のおかしい展開から、マリオン・コティヤールとイリーナ・ルブチャンスキーに完全お任せで匙投げたアフリカン・シークエンスにおけるデプレシャンの判断が果たして正常だったのか?連日連夜登壇し、お疲れのところを私の顔を覚えてくれ、気さくにサインに応じてくれたデプレシャンに感謝の意を述べつつも、デプレシャンも老齢期に差し掛かり、すっかりあちら側の人間になりつつある。それにしても原題『FRÈRE ET SŒUR』なのだから普通に『アルノー・デプレシャンの兄弟』と邦題を付ければ良いものを『私の大嫌いな弟へ ブラザー&シスター』とした配給側スタッフの判断には率直に言って疑問を禁じ得ない。マーケティング論としてこのタイトルでは残念ながら20代30代には届かないと思う。
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