うえびん

聖地には蜘蛛が巣を張るのうえびんのレビュー・感想・評価

聖地には蜘蛛が巣を張る(2022年製作の映画)
4.0
狂信・盲信?

2022年 アリ・アッバシ監督作品

2000年から2001年にかけて、イランの聖地マシュハドで、実在の殺人鬼“スパイダー・キラー”(サイード・ハナイ)によって起こされた娼婦連続殺人事件にインスパイアされ創作されたクライム・サスペンス。

ドキュメンタリータッチの映像、目にすることの少ないイスラム都市の街並み、不穏にきらめく夜景に目を奪われる。

主人公の女性ジャーナリスト・ラヒミを演じるザーラ・アミール・エブラヒミの迫真の演技、殺人鬼・サイードを演じるメフディ・バジェスタニの凡庸さと狂気を豹変させる演技に目を奪われる。

殺人シーンがリアルで克明に描かれていて恐ろしい。被害者の生活や家族など、背景も丁寧に描かれているので、当人の無念さを想像させられる絶命シーンに目を奪われる。

サイードを狂気に駆り立てたものは、イスラム法の信奉だった。彼だけでなく、彼の行為を正当化する人々が拠り所とするものも同じく信奉だった。

宗教や思想を信じ尊ぶことは、多くの人にとって、心の支えとなる。それは、複雑で不条理なことも避けられない人間社会を生き抜くための杖となる。だから、普遍性をもって古来から現代まで永く継承されている。

しかし、その宗教や思想自体が、争いや殺人の原因となってしまうのはなぜだろう。“和をもって貴しとなす”の私たちの国の思想とは、決定的に違う“何か”がある気がする。

『日本教の社会学』(小室直樹・山本七平)


小室)宗教的自由というのは、一神教における契約という考え方があって、初めて具体的内容を持つわけでしょ。だから違う神との契約を結んだ者は許すべからざる者である。ただちにぶち殺して当然だとなる。また、同じ神との契約を結んだ者でも、契約の解釈が違った場合も同様である。だから、異教、異端というのは自由に殺していい。(中略)

これが実は、宗教的自由ということの前提になる考え方でしょう。このことがよく理解されていないと、宗教の自由などわかりようがないのです。この意味で、日本人の精神構造は宗教的自由がわからないようにできています。(中略)

この前提のうえに、それでも異教、異端を許そうという寛容の精神が出てくる。これが、近代国家における宗教の自由でしょう。そこが近代国家のものすごい緊張のある点でして、すなわち内面と外面を峻別して内面は問わない。内面はおまえ、悪魔であってもよろしいと。しかし外面的なものだけ、つまりフォーマルな国家秩序さえ守れば、その限りにおいては何らわけへだてなくつきあいましょうと、それが宗教的自由の内容なんです。


なるほど、本作でイスラム法を狂信的に妄信していると感じられる人々が、殺人を正当化させる根拠が少し見えてきた。売春やドラッグは、フォーマルな国家秩序を乱す行為であり、そういった行為を繰り返す者は、許すべからざる者であり、殺されて当然である、と。


小室)宗教的自由と社会的自由というのは、密接な関連がありまして、社会的自由というのは簡単にいえば、公権力はプライバシーに入ってくるなということです。つまり、内面と外面を峻別して、外面においては絶対、責任をとるが、内面においては他人に対して責任をとらないと。その人だけの責任であって、他人との関係においては、一切責任を問われるいわれはない。これは宗教的自由の裏返しでして、そういう意味での社会的自由というのは、近代デモクラシーの不可欠の前提なんですよ。しかし、ここが日本人にはわからない。


内面と外面の峻別、他者の介入を許さない強固な内面性。サイードが裁判で精神鑑定を頑なに拒んだ理由が、何となく分かった気がするけれど…。

「道徳警察」「腐敗に対する聖戦」「殉教」「すべては神の意志」…

日本人である僕には、腑に落ちないことだらけ。頭の中にたくさんのフックが掛けられてしまった。
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