【椅子取りデスゲーム】
U-NEXTにて。先日見たドキュメンタリー『リタ・モレノ 私は進み続ける』に惹かれたので、久々に本作を振り返ると、善き体験となった。なぜ、初見の時から本作に馴染めかったのかが、わかってきた。
力作であることには異論なし。現実のウェストサイド・マンハッタンに、迸るダンスパワーを解き放つ導入部には今でも唸らされる。
ジェローム・ロビンズの振付も中々に興味深い。個人的には、パリ・オペラ座の公演で見た『牧神の午後』が強烈だったので、あの体験よりは落ちるのだけど。
本作は全般、設定>物語、だと改めて思う。
悪因が重なり、追いやられた若者たち。戦後に“若者文化”も育ったのに、それを発散する場もない。もはや物理的にも居場所が狭まり、心身とも、椅子取りゲームせざるを得なくなっている。
ロビンズほか、元々の企画者がゲイであったせいか、マイノリティの中に、さらに性的マイノリティを含めて泡立てているのも感心する。Anybodysという名も示唆的だが、この仕立ては今でも鮮度を感じる。
世相を反映させ、押さえるべくを押さえた設定は、善い方のアメリカ映画の矜持だと思う。
因果関係がかなり明快だから、例えば連中皆に仕事先があり、働く喜びを知っていればあそこまで拗れなかっただろう…とも思えたり。それを冒頭で体現しているのが物語の要、トニーなんだけど。
しかし改めて呆れたが、白人側不良団から抜けたトニーが、端っからアタマお花畑なんだよね。冒頭ではまだ運命の出会いはしていないらしいが…ヘラヘラ歌って大丈夫かコイツ?といきなり気が抜けたわ。
で、プエルトリコ側のマリアと互いに一目惚れするんだがアソコ、昭和の少女漫画かよと。絵だったら周囲に花が咲きまくるヤツ。この時点でうわ、ついていけん!と改めて、底冷えしてしまった。
以降の展開にほぼ説得力を感じられなかったのは、始まりがこれだから。
色ボケしている人に、敵対勢力間の仲介をさせようってのがファンタジー過ぎて、現実へ戻って来れない。恋愛感情とは別の所で闘うことができれば、説得力あるのに…。現実逃避にしか思えないよ。
たまたま自分らが、衝動的に一目惚れし合って、自分らが結ばれたかったら和解へと動いただけでしょ。これが問題解決を却って有耶無耶にしちゃった。要がこれでは、全体が茶番劇に映ってしまう。
逆に言えば、皆で一目惚れし合えば、本作の扱う諸々が解決できるのだろうか?
見た目でやっぱりウンザリしたのは、プエルトリコを演じる側の、顔の“茶塗り”。
ロシア系のナタリー・ウッドには割と薄く塗っていたんだね。一方、ギリシャ系であるジョージ・チャキリスはヒドイね…。ミンストレル・ショーみたい。塗りにムラがあるショットもあって、笑うに笑えない。
ミュージカルで今回面白かったのは、破滅的事件が起きた後、白人メンバーらがクールであれ!と踊るナンバー。
歌って踊って、始めと終わりで感情を強制的に、180度回頭させちゃうんだよね。コレ、凄い療法だけど、この頃からあったのか。アメリカン・ミュージカルあるある。アナ雪レリゴーもこうだった。
他、よかったポイントでは親世代に向け、誰がこうしたんだ!と世を嘆く一言がけっこう刺さった。環境のせいにして、自分に原因があることを忘れるのは愚かだが、その叫びには一面の真実があるから、頷いてしまう。
現実の親を出さず、親世代を警察と、溜まり場の店主しか出さなかったのは、狙っているように思う。
『リタ・モレノ 私は進み続ける』がきっかけで再見したが、アチラでは本作でのリタさんが凄い役割をしたように描かれていたが、改めて全体から見ると、作中ではさほど、立ってはいなかったなあ。
…何にせよ本作、功罪あわせ残ってほしい映画ではあるかと。ここから学べることはまだあると思う。…現実が変わっていない相応分。
<2024.9.29記>