いとJ

エゴイストのいとJのネタバレレビュー・内容・結末

エゴイスト(2023年製作の映画)
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このレビューはネタバレを含みます

すごい久しぶりに更新。

 エッセイスト、高山真の自伝的な同名小説の映画化。

 中学生の頃に母を亡くし、父子家庭で育った浩輔(鈴木亮平)は、パーソナルトレーナーの龍太(宮沢氷魚)と出会う。龍太は母子家庭で、病気がちな母(阿川佐和子)を養うために日夜身を粉にして働いている。次第にふたりは惹かれ合い、浩輔は龍太親子の生活費を支援することを申し出て交際を始めるが……というのが序盤のあらすじ。

 単刀直入に書くと、本作は「ケア」についての映画である。ここ5~6年でケアをめぐっては多数の書籍や論考が書かれている。しかし、それらを俯瞰して映画の感想を書くだけの力量はわたしにはないので、この感想では映画に即してケアについて考えてみたい。

 映画の題が示すとおり、ケアには、ある個人が誰かに対して「わたしがこうしなければ気がすまない! お願いだからわがままをきいて!」という面が必ずあると思う。相手の断りに負けず、自分のために相手を支えること。ケアというと、「支える-支えられる」という、二項対立的な支援-被支援関係と捉えられることもあるのだが、よく言われるように、当然そんなに単純ではない。相手のために支えるのではなく、自分のために相手を支えるという関係になるとき、むしろ支えられているのは支援する自分のほうである(ものすごくありていに言えば、患者なくして医者はいない、ということ)。

 こうしたエゴイズムに突き動かされるケアは、うっかりするとおせっかいになりうる。求められていないのに良かれと思ってお世話をすることは、どうあれ迷惑なので往々にしてやめたほうがよいと思うのだが、浩輔のすごいところは、世話をするために相手が納得するまでくり返し説得するところである。龍太も龍太の母も、浩輔の申し出を最初は断るのだが、浩輔は世話を焼くことを自分のわがままとして相手に提示する。そして、龍太と母は、その行為を「愛」として受け取るのである。

 この説得方法が見事だな、と思うのは、「あなたのためを思って」なんてことを浩輔は絶対に言わないからだ。「あなたのために」と言う人は、たいてい嘘つきである。その願いは「あなたのため」などではなく、「自分のため」だからだ。「あなたのため」、それはその言葉を発した当人のエゴを覆い隠す言葉である。だから「わがまま」であることを承知の上で説得を試みる浩輔の誠実さに、胸を打たれた。

 また、浩輔は事あるごとに「すみません」や「ごめんなさい」といった謝罪の言葉をくり返す。わたしも会話の中で、フィラーのように「すみません」といった言葉をくり返してしまうことはあるのだが(とりわけ仕事中は顕著)、浩輔のそれはちょっと度を超えているようにも思える。鈴木亮平の屈強な体とは驚くべき釣り合わなさで、あまりにも腰が低いのだ。

 印象的なのは龍太の母がコップに入れてくれたお茶を飲むシーン。浩輔は必ず龍太の母に、ものすごく丁寧に一声かけてからお茶を飲むのである。このシーンは二回あるので、コップ一杯のお茶をそんなに遠慮して飲むのか?! と驚いた。こうした振る舞いを見るに、浩輔には、自分が主体として行為することへの、過剰なまでの申し訳なさというか、罪の意識があるように思われる。しかし申し訳なさを感じながらも、それを止めることはできない。できないからゴクゴクと、実に美味しそうに飲んでしまう。だから浩輔は、龍太を愛し、また龍太と母を世話をしたいという自分の感情を、愛ではなくエゴだと感じたのだろう。ケアすることを止めることができないからである。そうした罪の意識が何に起因するものなのかはわからない。しかし、自分のせいで龍太も龍太の母も振り回されたと感じ、「愛がわからない」と口にした浩輔に対し、「あなたがどう思っているかわからないけど、龍太も私も愛してくれたのね」と答えた龍太の母の言葉は、そうした罪の意識を解き放つ言葉であったと思う。これは、龍太の母なりのエゴなのだ。愛することもエゴであるが、愛されると感じることもまたエゴなのである。ケアする者はケアされる者であり、そして、ケアを突き動かすものはエゴ=愛である、という本作のテーゼは卓見だと思った。

 とはいえ、こうした人間関係は稀有だ、ということは書き添えておきたい。愛していれば献身的な世話をすることができるかもしれないが、それはあらゆる人間関係にとっての唯一解では当然なく、多少距離があったりあんまり面倒を見ないから愛せるということもあるし、また、さほど愛していないが世話をしなければならないという状況も現実には多々ある。本作が胸を打つのはこうした人間関係が稀有だからこそで、誰かに対して人はここまで献身的になれるのか、ならなければならないのか、と悩むよりは、自分が呼吸しやすいほうを選ぶのがよい、それがわたしの生きる道(これもまたエゴイズム)……と思うのであった。
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