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あさぎり軍歌
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『あさぎり軍歌』に投稿された感想・評価

✔『あさぎり軍歌』(3.8p)及び『ハワイ·マレー沖海戦』(3.7p)▶️▶️

 軍事や国家を描く作風とは無縁なような、極めて穏やかでパーソナルな嗜好を持つ作家が、太平洋戦争下の自分を貫く姿勢のしなやかさを見せてくれた2作。
 石田はこの後、更なるレベルの傑作『三尺左吾平』を発表するが、歴史と時局に向き合い、形上の折合いと決意を示し、近く映画界から去るかも分からない眦を感じるのはこっちだろう。この映画は今回初めて見たが、新興キネマ時代の荘重決定力と東宝時代のスルリとそれらを掻き分けてゆく軽妙さが、併さった正に集大成的作品ともなっている。沖や屋根連なりの向こうの軍船らや大火の砲撃·爆裂の円谷特撮も、一般ドラマ部分も、全体に朝霧や戦火の薄煙りを焚いてる事多く、浮き立つ度合いは少ない。
 「主君への恩義を一生忘れるものではない。しかしその下で、(国内の)薩長を倒すべき敵として、函館に拠点を変え逃げ出したり、上野に立て籠もる戦い方は解せない。他のような粗悪品を利益の為に売り捌く店ではない、俺の所は。武器を大事に活かしてくれれば、薩長·彰義隊変わりなく売る。しかし、新しい武器を粗末にし、胡散臭く思ってる所には(元同じ旗本であっても)売らん。···いずれ、武士はなくなり、国民皆兵となり銃器を扱う。その為の研究所。相手はこの国を狙う外敵だ。その為の段階」聴き方によると、当時の挙国一致·国民総動員的な、ファッショの匂いもする。しかし、主人公の顔は晴れやかではなく、生き延びる必要悪の認識にも取れ、それは先には無いものとも出来る希望が滲んでるような気もする。
 ショットは限定され、軽いショットというのがなく、移動も縦や横にスーと長めゆっくりめに動き、クレーンワークの大掛かりめもある、しかし決して重く極めようとはしない。また自然の枝葉がかかったり、広大な門や石階がスッと力入らせず収められてく。寄り図も、切返しや90°変や仰俯瞰めがスッキリと、しかしふらつかず時に長く捉えられる。男は無理な不動直立に入り、女は自然に柔らかく崩しを取り込んでくる。
 旗本名門の三兄弟(2番目は婿養子で、後の2人が商人=研究者になるのに1人幕府側に残り彰義隊に)と姉妹、その母の家族。函館脱出隊や彰義隊組から、命·武士の恥と対面に関わる、圧力がかかる。3男の許嫁は、怒る父から縁談取止め·彰義隊から3男居場所詰問に、先手で自死する。最後の将軍の水戸家預かりの出立の、壮大儀式化·立場越えた兄弟いつしか揃い·皆の無念の深さ、のかたちの張出し·流れは見ものだ。
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 山本嘉次郎は、無色で変な偏りがなく、分かりやすくかつ高度な話術·技術にも通じ、美的·知的バランスに長け、円満な表現者を想像するが、やはり、大作家と言うには個性や癖に欠ける気がするが、黒澤やエノケンの様な強固な個性が身内にいる時、自分を越えた作を物す気がする。『ハワイ~』は、当時の国力·映画高揚の総力が集まり、見事な作品だが、圧倒的核がない分、淡白な印象が残りがちだ。しかし、これは山本の映画感覚·収集力がフルに発揮され、国策など消し去りそうなニュートラルな映画美で張り詰めた作品だ。妙に作品からメッセージ等引き出そうとしなければ、その映画というものの理想イメージの実現に感動するはずだ。
 「頑張り抜く精神だ。戦闘·敢闘と自己犠牲」「俺は自分の物てはなく、大元帥閣下(天皇)の一部なんだと。大和魂に繋がる」「欧州や中国の闘いも、全ては英米に繋がる。(この諸悪の根源を)叩かねば」「攻撃される迄キャバレーのカーニヴァルをラジオで中継のつもりらしい」それらは、山本作品においては無理な高揚感を抱かせない。予科練の訓練にしても、スケールでは独米のそれに類するものに劣り、国家としての強靭さに至っては何をか言わんやだ。(幸運·神風に過半頼る、)日本はそんな国なのだ、とも実感させてく。故郷への帰省や夢の描写定期入れ、切返しや90°やより浅め角度変の確かさ、人の(列の)動きの左右交じりバランス、それと絡むカメラの横め移動の加え、フォローやそれに廻り込みが少し加わってるニュアン
ス、’30年代末から取り入れられたズームの何気の数回使用や艦内の揺らし方のナチュラルそのもの、同期·上官との立場のさらに上ゆく合図と答えのあり方、ワーグナーの取り込みや叙情音楽·米賑やか音、霧や雲間の効果による尖った特撮でなくエッジ柔らか本物視界·質感導入らが映画の平明·透明無色を戦争映画内に作る。
 実写の部分に負けぬ、大Lや退き図のミニチュア特撮。飛行機のブレ少、雲間·崖と樹木、湾全体·艦隊全体·基地全体から捉えきり·存在性そのものから成っている敵国側、水柱や破壊性でかめも際立たぬ品格、リアルを超えた破壊の内から必然力。追加のマレー沖戦の、特定艦執着視野狭さは、ハワイ戦の雷撃→爆撃→戦闘機移行平静さの広さ·高みを逆にみみっちく補佐するものかも知れない。今に至るも、戦争大局ものの、世界的最高作の一本。
3.9
瓦屋根の上で上野の山の戦火を眺める坂東好太郎と花井蘭子。石田民三を観た誰もが『花ちりぬ』の反復にああと思うだろう。かつて舞妓姿で物見台から京都の戦火を眺めた花井蘭子は眉を落としたおかみさんとなり、『花ちりぬ』『花つみ日記』『むかしの歌』で表された女性たちの考えであったり自立した心であったりというものはこの『あさぎり軍歌』においては全く焦点が当たらず、妻や許嫁や母はひたすら貞女でしかない。
国策映画(映画だけでなく当時の多くの創作物)をしんから翼賛的な信条をもって作った作家はそう多くなかったのではと想像するが、この1943年公開の石田民三作品においても、なんとなく戦意高揚のテイをとりながら、幕末から変わらない日本の中枢の体質を看破し暗に批判しているように、現代の視点からは見える。とりもなおさずそれは現代の日本にも当てはまる。縁故主義。無茶で奇矯な精神論。
私たちは当時のことをこうやって映画や書物やさまざまな記録からしか知ることができないが、この『あさぎり軍歌』を観ても、まぁ文化人だから当然としても、結構多くの人たちが当時の状況を「わかって」たのではないかなぁとも思った。どうなんだろう。朝霧の中、瓦礫だらけの上野の山で彰義隊の弟の亡き骸を探す坂東好太郎の言葉は現代まで続く日本の中枢に対する皮肉でしかない。
新政府軍にも彰義隊にも与することなく、旗本の身分を捨てて新兵器の研究を極めるコスモポリタンな合理的発想をもった坂東演ずる長男と、それに追随する三男、髷を切らずしかし刀だけに頼れずにわか仕込みに鉄砲をかき集めた彰義隊に属する次男という、脚本的にはなかなか活気のある内容で、どちらかというと演出としてのショットの作り込みよりも脚本をどう再現するか、国策映画という名目のかいなをどうくぐり抜け自らの信条を表すかに力が注がれてるようにも思う。それもまた石田民三作品なんだよなぁと感服。

瓦屋根から見える円谷英二の特撮による戦火はあまりに不似合いな迫力がぞっとするし、朝霧の中の兄弟と瓦礫の山にもぞっとする。
一
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戊辰戦争が舞台。国策映画として解釈するならば、台詞で念押されるように「日本人同士争っている場合ではない 真の敵は外国である」なのだが、それにしても、武士精神にきっぱり見切りをつけて武器商人に転身した坂東好太郎のシニカルな立ち振舞いは異様に映る。円谷英二の特撮で派手に描かれる戦闘を他人事のように屋根の上から眺める姿にどう感情を肩入れしろというのか。幕府軍が全滅した戦闘の跡に足を運び「命を賭するほどの信念は必要ない」とまで言うのも、どう考えたって当時の日本軍に対する批判だろう。これがお咎めもなく作られ公開されたことに驚く。民三、やはり底知れない。