hoshikazukanjo

ぬいぐるみとしゃべる人はやさしいのhoshikazukanjoのネタバレレビュー・内容・結末

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このレビューはネタバレを含みます

前情報が“クィア×ぬいぐるみ”だったので、私のための映画か??と思ってとても期待していたけど、想像していたものとだいぶ違った! 以下、9割方の人間に理解されないであろう、ぬいぐるみ世界の話です👇


この映画は「人間とぬいぐるみ」の話のようで「人間と社会」の話である。「他人を傷つけたくないから」という理由でぬいぐるみと話すのって、“人間>ぬいぐるみ”の考え方に感じる。いやもちろんその考え方(ぬいぐるみは生き物に近い形をしているけどあくまでモノに過ぎない)が一般的なので、全くおかしいことはない。でもガッチガチのぬいぐるみ愛好者は人間とぬいぐるみが同等にあるので、そこにまずギャップがあった。人間にはできないこと、ぬいぐるみにする分にはへっちゃらなんだ?って。ぬいぐるみに喋りかける理由が、ぬいぐるみとの親密な関係性によるものというより、ぬいぐるみが想定外の反応をしないこと(=モノ)によるものに感じる。もちろん、ぬいぐるみと共に暮らす理由は人それぞれで、そういうセラピー的なモノとして“使う”のだって全然アリ。でも、人間同然にぬいぐるみを愛してる者がうっかりこの映画を見ると、そのギャップに驚いてしまうだろうね。ここでいう「やさしい」というのは、対ぬいぐるみではなく、人間に向けられたやさしさのことなのか!って😂

というのも、私自身がガッチガチのぬいぐるみ愛好者だからである。家族のように可愛がってるぬいぐるみがいる。ぬいぐるみのインスタアカウントを作って、世界中のぬいぐるみ愛好者と繋がってる。自分もそうだし、周りの愛好者を見ても思うのは、ぬいぐるみとしゃべる行為は告解室で懺悔するようなものではなく、イマジナリーフレンズ(またはファミリー、ペット)と話す感じ。でも、そうやってぬいぐるみを家族のように大事にしていると言いつつも、結局は二次創作みたいな妄想世界。自分の都合のいいようにぬいぐるみを解釈して楽しんでいる。可愛いからって作られ(集められ)続けたものの、膨大な量のぬいぐるみを等しく可愛がるなんて当然できず、棚にずーっと座らせられているぬいぐるみ。これは自分自身がそうだからあえて言うけど、そんな勝手な人間が本当に「やさしい」のか……??私はそうは思わない。どう考えても、何も言わずにそこに居てくれる「ぬいぐるみがやさしい」のだよ。人間の勝手な都合を受け入れてくれるぬいぐるみがやさしい。

私なんでこんなにぬいぐるみ好きなんだっけか?と考えた。最初は可愛いからという理由で幼少期に買ってもらった。そこから友達や家族のようにず〜っと一緒にいる。私はぬいサーのように、悩み事をぬいぐるみに喋りかけたことはない。やっぱり人に話せないことはぬいぐるみにも話せない。でも、私が泣いてようが、不機嫌だろうが、ニヤついてようが、歌っていようが、ぬいぐるみは何も変わらずそばにいてくれる。やさしさと無関心は似ている、というのがまさにそう。ひとつひとつのアクションに「どうしたの?大丈夫?」とか聞いてこない。「話した方が楽になるよ☺️」とか言って本当は情報屋みたいに美味しいネタ仕入れたいだけだろ!とか思っちゃうから、出来る限りフラットな自分でいるよう努めがちだけど、ぬいぐるみはそういうものが一切ない。だからぬいぐるみはやさしい。ぬいぐるみにその役割を任せてる私は別になにもやさしくない。改題したい。

ん〜なんか上手くまとまらない!
要は「ぬいぐるみとの親密さが描ききれていないために、どうしてもモノとして扱ってるようにしか見えず、それなのに『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』というタイトルになってることに違和感がある。やさしいのはぬいぐるみだ!」ということです。

で、もやもやした気持ちのままいるのもあれだから、映画鑑賞後すぐに原作を読んだ。そしたら映画を観てもやもやした気持ちがほとんど消えた!ここに全部答えあったじゃん!!原作もたしかに「人間と社会」の話ではあるのだけど、そこに「ぬいぐるみ」がどのように存在しているかが、さりげなくもしっっっかりと書かれていてびっくりした。これすごい。
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