カラン

親愛なる日記 レストア版のカランのレビュー・感想・評価

親愛なる日記 レストア版(1993年製作の映画)
4.5
映画の冒頭でノートに、Caro diarioとボールペンで書き留められる。監督のナンニ・モレッティの手であり、「親愛なる日記さま」という意味で、日記さまに宛てた映像日記ということである。ナンニ・モレッティは若い頃から映画製作と役者として出演をし、多数の賞を受賞してきた映画人であるが、1989年に癌になり、回復後の1作目となるようである。


☆ワレ映画ヲトル、ユエニ、、、

オフビートの映画というと、ちょっと変わった人物が彷徨いながら人生を垣間見させる退屈な映画というのが私のイメージなのだが、本作はまず善良さや市民道徳をアピールしてこない。ごく常識的な意味でお洒落でもない。可愛くもない。

ヴェスパに乗って、通りを非常に大らかに走り回るのは、ローマの通りや建物を映すため。或いは、船に乗るのは海や火山を映すため。ジュゼッペ・ランチのカメラは抜群にかっこよい。

日記風に想いの巡るままに作られた、徒然なる映画のように思えるが、ダンスがしたいと言い出して、『フラッシュダンス』のジェニファー・ビールスが実際に登場する辺りから、もはや隠しようがないのは、この映画はやむにやまれぬ表現への渇望とそれを支える技術に裏付けられた1つの立派な映画であるということなのである。


「第一章 ヴェスパに乗って」と「第ニ章 島めぐり」で、ナンニ・モレッティは時々おかしな行動に走る。オフビートの描写としてはあまり目立つものではない、笑えるものでもない。しかし、苛立ち、は間違いなくそこにある。前半のモレッティの神経質な苛立ちは世間のオフビート愛好者たちに好まれることはないだろう。

イタリアの通りやカフェや舟や火山や、あまり海に近いので干潟のようになった誰もいない泥のサッカーコートと、モレッティの苛立ちを調和させた映画を撮るという、それ自体オフビートな企図がこの映画にはたぶんあるのだ。しかるにこの映画にはオチもない。

ジェニファー・ビールスは一緒に歩いていたアレクサンダー・ロックウェル(注)に「頭がおかしい」とモレッティには分からないと思って英語で言う。モレッティは頭のおかしい変人の素振りだが、ここは映画界における彼の孤独を示しているのである。

(注) 当時、ジェニファー・ビールスとアレクサンダー・ロックウェルは夫婦である。この夫は『インザスープ』(1993)の監督である。

この後、パゾリーニの死んだとされる場所に、やはりヴェスパで行く。偉大な映画監督はどんな最後を遂げることになったのか?この問は映画監督モレッティがこれからどうなるのか?と重ねられている。したがって、『フラッシュダンス』や、『ヘンリー』、あるいはパゾリーニなどの名が出るが、イタリア映画史のトリビアとかいうものではまったくなく、こうしたことはモレッティの人生の問題なのである。映画を作って彼は生きてきた。病気になった。街の人は自分を知らない。街にいた映画人は自分を頭のおかしいやつだと思っている。だからパゾリーニの死に想いを馳せるのである。第二章でモレッティはある島の村長に歓待されているようだが、村長は自己PRに利用しようとしているだけ。第一章と第二章のモレッティの気分は同じである。第三章では「知人のつて」で有名医師に診てもらったり、モレッティの仕事がストレスの多い職業だということを医者が知っていたりする。

この映画の第一章は、なんでもないものの映画である。なんでもなく、誰も知らない映画監督の自分を映し続けて、オチもない、映画を映画として仕上げらるか?映画に捧げてきたし、これからも捧げ続けることになる無意味な自分の人生を映画にできるか?

映画になっている、と私は思う。第一章と第二章は。第三章は医者めぐり。これは構想的には後付けのようである。モレッティの裸ばかりなのがきついが、モンタージュでなんとか交わす。


Blu-rayで視聴。色調がよい。素晴らしい海のブルーと、土の存在感である。音楽の音圧の上げ方も良く、音質も悪くない。一人で愉しむ映画。カメラは映らないが、カメラはときどき友達のようにそこにいる。
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