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フェイブルマンズの都部のレビュー・感想・評価

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
1.7
本作を語る前提としてスティーヴン・スピルバーグ監督作の一作として本作は一般水準程度の完成度は確保されており、まず間違いなく世間評として酷評されるほどの作品ではないのだが、私個人の好みとして半自伝的な物語を装いながら私小説性を自覚的に剥奪した自我の薄い物語を著しく好まないために作品評価は散々なものとなっている。

私は自分の物語を他人事のように語る奴が大嫌いなのだ。

物語はスティーヴン・スピルバーグの幼少期から青年期まで──その人生の追体験的物語との対峙迫られるサミー・フェイブルマンの精神的な幼年期の終わりまでの日々を描いており、その最中でカメラを通した"撮影"という芸術的行為に取り憑かれてしまった職業人としての業を巡る語りが展開される。初めて目にした"衝突!"の再現から始まり、オリジナル映画/ホームビデオの撮影という形で連鎖していく将来の軌道が『子供の趣味』と父親に一行に切って捨てられる場面も酷薄であるが、母の不貞を思わせる一幕を記録してしまった場面が本作では特に印象的だろう。

余計な台詞や説明を挟まずに、自分の映像をクローゼットの中で母と共に目にする画を改めてその場に持ってくることで、純然たる好奇の"趣味"だったそれをこれからも維持することが出来なくなることを示唆する──後戻りの効かない母との関係の複雑化を、そうした形で際立たせているのは流石は往年の名監督だ。カメラを手放すことになる動機としてはあまりにも強いし、撮影により生じた家族間の関係の歪みは芸術嗜好の人生の代償となり得るという非常に分かりやすい構図である。
(その場面の前に、大叔父の来訪を受けて改めて人生の進路を問われるサミーのシーンを配置している辺り本当に理解が容易な映画だ)

しかしそんな形でカメラを手放したとしても、人生の劇的な出来事を撮影対象として捉えてアングルを思索してしまうというのは業その物であるのだが、この目の前の出来事をカメラ越しに他人事と切り離す心理的働きがどことなく本作には漂っている。本作は監督当人の経験に基づくとされているが、その割に他人の鑑賞に最適化されたシークエンスの接続により構成されており、理解の及ばない点などない月並みな物語として補完されている。それが大衆映画だと言わんばかりに。そんなのは面白くない。なんでそんな風に自分の話を語れるのか信じられない。

月並みに劇的な家族の不和を消化するとこれまた月並みなティーンエイジャーの物語が始まるが、ここで取り質される葛藤も既製品のように味気なく、どこかで見たような物語の要素の詰め合わせに過ぎない。その割に尺が長々としているから腹が立つし、自我が露出することもなく観客の為の物語が義務的に語られるだけだ。この話 何処が旨みなんだよ。

私は別に映画監督として華々しくデビューを飾った後の話を見たかった訳ではないし、人格形成として重要なこの時期を切り取るのは判断としてはむしろ正しいと思うが、そのくせこの映画にはあるべき自己が不在で、それは多大な違和と退屈を引き連れた不快感を抱かせる。

それらしい筋書きが展開されるがそれらしいの域を出ることはないし、撮影の為に最善を尽くしてしまう──それは自分の好き嫌いすらも勘定の外側に排斥される度外視の行動として──ことが問題の本質であると言われてもそれは別に物珍しくもない回答である。監督の名前の大きさが下駄として機能しているのは明白であると思うし、この空虚極まりない他人事のような自分語りに150分という尺は絶対に適切ではないように思う。
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