SANKOU

フェイブルマンズのSANKOUのネタバレレビュー・内容・結末

フェイブルマンズ(2022年製作の映画)
4.2

このレビューはネタバレを含みます

両親に連れられてサム少年は劇場で初めての映画体験をする。
『地上最大のショウ』の蒸気機関車と車が衝突する場面に釘付けになってしまったサム少年。
そんな彼が両親にねだったのはカメラ…ではなく蒸気機関車の模型だった。
彼は次第にレール上を走る模型をあらゆる物と衝突させたい欲求に駆られる。
母親ミッツィは彼にカメラを与え、その様子を映像に撮ってみてはどうかと促す。
こうしてサム少年の映画人生が幕を開ける。
スピルバーグ監督の自伝的な作品と聞いていたので、彼の映画のルーツがどこにあるのかとても興味があった。
初期の作品から彼の映画は抜群に見せ方が上手いと感じていたが、彼は少年時代から映像のリアルさを追及していたようだ。
父親バートは優秀な科学者、そして母親ミッツィはピアニスト。
どちらかというと現実主義者のバートは、サムの映画をただの趣味程度にしか捉えていなかったらしい。
芸術家肌のミッツィはサムの映画熱への理解は深いが、精神的に不安定なところがあるのが難点だ。
いずれにせよ、映画を撮ることに協力的な両親のおかげで、サムの映画人生は順調な滑り出しを見せたといっていいだろう。
映像のリアルさを追及するサムだが、ある撮影をきっかけにフィルムの残酷さを思い知らされる。
それは家族でキャンプに行った時の映像だ。
母親を亡くして精神的にショックを受けているミッツィを励ますために、バートはキャンプで撮った映像を編集して上映するようにサムを促す。
サムはフィルムに映るミッツィの、父の親友であり仕事仲間でもあるベニーに向ける視線が明らかに友情を越えたものであることに気づく。
フィルムは真実の姿を映すものだ。
サムはミッツィとベニーの仲睦まじい場面だけは編集からカットして上映する。
が、彼の中でベッツィへの不信感は高まってしまう。
波瀾万丈と呼べるほど浮き沈みのある半生ではないものの、それでも若いサムの心に影を落とす場面は何度となくあったのだろう。
バートがより高収入で認められる仕事を選んだために、一家は慣れ親しんだアリゾナからカリフォルニアに移らなければならなくなる。
そこはユダヤ人であるサムを差別する人間の多い場所だった。
彼はローガンら差別主義者の生徒たちに目をつけられ、虐めにあってしまう。
そんな中でも刺激的な出会いもあり、彼は熱心なキリスト教徒であるモニカと恋に落ちる。
サムの映画熱は冷めていたが、モニカの提案で彼は卒業プロムで上映する卒業生のムービーを撮ることを決める。
その間にベニーのことが忘れられないベッツィはバートに離婚を切り出す。
お互いにまだ想いはあるのに、バートは彼女の気持ちを受け入れる。
目まぐるしく環境は変わるが、やはりサムの映画への想いは消えることはなかった。
プロムでの上映は拍手喝采で迎えられるが、モニカにフラれてしまったサムは意気消沈。
そこへローガンが血相を変えて現れる。
ムービーの中のローガンはまさにヒーローのような描かれ方だったが、ローガンはそんな作られた自分の姿に我慢が出来なかった。
これは虐めの仕返しかと詰め寄るローガンに、ただサムは彼がとても画になるからそのように撮っただけだと答える。
サムとしては、まさかローガンがそのように悲観的に受け取るとは思わなかったのだろう。
フィルムは真実を映し出すが、作り手の意図によって真実を曲げることも出来てしまう。
おそらくこの体験はサムの映画人生に大きな影響を与えたことだろう。
もっとも最後にこのムービーのおかげで、サムとローガンは始めて腹を割って話すことが出来たのだが。
個人的には大伯父のボリスがサムに話した「芸術は痛みを伴うもので、孤独をもたらすものだが、お前は映画を撮り続けるだろう」という内容の言葉が印象的だった。
どんな出来事にも意味があり、サムが経験した様々な出来事が映画に反映されているのだろう。
クライマックスの大巨匠ジョン・フォードとの面会シーンには心を打たれた。
「地平線を下にしても、上にしても画にはなるが、真ん中にすれば駄作になる」
正直それほどドラマチックな作品ではないと思ったが、やはり見せ方が上手いと思ったのは地平線を真ん中に描いていないからだろうか。
ジョン・フォード役を鬼才デヴィッド・リンチが演じているのには驚かされたが。
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