Torichock

猿の惑星/キングダムのTorichockのレビュー・感想・評価

猿の惑星/キングダム(2024年製作の映画)
3.6
分かり合えることはないことを分かり合う『猿の惑星-キングダム-』

チョークスリーパーをかけ合う多様性
日本人は「日本では・・・」という言葉をよく使う。
わりと孤立した環境だったり、独自の文化を形成したガラパゴス化した国家では、例えばカレーもパスタも餃子も「元は全然違ぇよ!」っていう食べ物が一般的な食文化に根付く、いわゆるネオ・日本食といわれる進化を遂げている。
次にネオが狙いをつけたのは多様性だ、この進化は凄まじい。

「青は男の子、赤は女の子という決めつけは良くない!」と別の色をバシバシ製造し始める。
「多様性の時代だ、ジェンダーレストイレを作っちゃおう」とぶち上げて、4ヶ月で廃止。

などなどゴールから遥か斜め下を行き、本来生じるはずのない衝突や事件をたくさん算出することに成功している。多様性の本来の目的とは?
私が思うに、私は私でお前はお前なんだからとやかく言うなクソッタレってことだろう。

私のnoteでも何回か紹介しているかもしれないが、チャーチ・オブ・サタンの「地上における悪魔の規範」の一部は、多様性に関して的を得ていると個人的に思っている。

8. 自分自身が被らなくてもよい事について文句を言ってはいけない。

11. 公共の地域を歩くときは、他人に迷惑をかけてはいけない。迷惑をかけてくる者がいれば、やめるよう頼もう。それでもやめないならその者を破滅させよ。

要するに他人に迷惑さえかけなければ、誰が何をしていたって自分に関係ないなら関係ないし、自由なんだから放っておけ、ということだ。

仕事で喫煙者に対して
「タバコ吸ってる奴らはその時間合計したら、私より30分は休憩取ってる!タバコ休憩廃止せよ!」
って騒ぐんじゃなくて、
「じゃあ、私も気分転換・ドリンク休憩で30分サボっちゃお〜!」
が正解じゃないか?
自由という言葉を錦の御旗に、首を絞め合うのはやめようよ。

コミュニティではなくキングダムをつくりし者
主人公のエイプ・ノアは鷹と暮らす部族として暮らしていたが、軍備化された傭兵エイプたちに村を破壊され家族諸共さらわれてしまう。
ノアは村の仲間たちを連れ戻すべく旅に出るのだが、道中でノヴァという人間に出くわす。人間はすでに絶滅危惧種になっていて、言葉を話せる知性・文明は損なわれていると思っていたエイプたちだったが、ノヴァは言葉を使う人間だった。

ノアの村猿たちは、プロキシマス・シーザーというボス猿の配下で半奴隷の様子で労働させられていた。そこにはまだ人間が文明社会を形成していた時の武器や兵器が隠されていて、プロキシマス・シーザーはそれをなんとかして手に入れ、残党の人間を駆逐して、エイプだけの王国を築こうと目論んでいた。
ノヴァの目的はノアの村猿たちがさらわれてしまった場所と同じで、とあるものを探していた。
鷹匠猿ノアと人間残党ノヴァの冒険が始まる・・・と言った内容だ。

おそらく多くの映画ファンが感じたであろう「えっ、続編やんの?」という感覚は、作品を観たあとでも拭いきれないものであった。
やはりそれくらい、「猿の惑星 創世記」から始まった3部作の偉大な存在であるシーザーという存在は、作品本編内に限らず、映画を観るわたしたちにも大きく残っていたのかもしれない。
本作のストーリーも、シーザーの意志を歪曲し上澄みを掬い上げ、自分の都合の良い方向に捻じ曲げたエイプの存在から始まったと言っても良い。

プロキシマスとはラテン語で"次"という意味だ。

3部作でシーザーが行って数々の偉業は、自分たち以外の存在を敬意を持って認め合い、適切な距離を保ちながら共存することだと私は感じている。
エイプは一つになれば強い。だからエイプは心を一つにしよう。人間の存在を赦し、自分たちの種族を守り合うことができると。
しかし結局は、心を一つにすることもできず、自分たち人間以外の知的生命体の存在を許せない弱い人間自身の行動によって、人類は黄昏を迎えていったのだ。

キングダムを築くことはできない
自称"次"のシーザーが行っていることは、他者を赦す強さ・粘り強く共存を目指す強さではなく、他者を破滅する強さを追求することだ。
そして、そのシンボルに

エイプは一つになれば強い

というシーザーの想いを湾曲して掲げている。
勝手に解釈し、勝手に受け取り、勝手に狂信し、勝手に崇拝し行動する。
人間が生み出した最も醜い存在の一つ【宗教】を、人間を破滅させたいエイプが行なってしまう。んー、なんとも人間らしい考えだ。

あんたらが(決して読んで下さっているあなたということではありません!)信じたい神的な何かや教えっていうものは、そもそも自分たちの心の安住や指標になるために存在しているものであるはずなのに、なぜそれが他者を蹂躙し服従させる行動につながるのだろうか。
放っておけよ、多様性なんだろ。
助けてって言われた時に助けてあげるくらいでいいだろう。何が進化だ、何が成長だ。
それが文明の進歩だから?より良い組織になるからか?強固な結びつきになるからか?
知らんがな!そんなものFUCK OFFだよ。
おっと熱くなってしまった、おっぱい、おっぱい。
そんなストーリーを観ると、現在の世界情勢の縮図としてみることも出来なくもない。

「元々はロシアだった」「元々は中国だった」と独立した国家や小さな隣国を侵略したり目論んだりする姿は、まさにコミュニティを認めず飲み込んで、俺キングダムを作ろうとする姿そのものを反映できる。
さらに言えば、エイプたちに主導権を絶対渡さないためにあの手この手を使い、自分たちの有利な状況を形成するために、右手に銃を隠しながらコミュニティを利用する偉大なるアメリカへの皮肉さとも取れなくとない。
(日本は半裸でウロウロしてる人間の一人な)

物語の着地としては、猿の惑星シリーズらしく、まぁこの先いい結果には絶対にならないよなと感じさせる雰囲気をまとっているし、ノヴァの行動の後味の悪さは、
この先どうあがいてもエイプも人間も分かり合えるはずはないよ、と宣言されている気がした。
私たちは絶対に分かり合えることはない。
赦す強さも認める心の広さもないことは分かったから、せめて放っておけ合える人間社会になればいいなと思うけど、そんな知的生命体のような行動はまぁ無理だろう。
人間も腹立つけど、人間みたいなエイプもクソ腹立つな。

さっさとミュータントになってコバルト爆弾を崇拝して生きて参りましょう。

悪夢は続くよ、どこまでも
と続・猿の惑星を観ようと配信探したら、20FOXだからDisney+にあって観れなかったから久しぶりにレンタルした。

キャラクタービジネスで手広く稼ごうと、ドラマシリーズで薄めに薄めてキャラクターを濫造した結果、誰もが認める失敗・取り返しのつかないところまで来てしまった黄昏のMARVELシリーズ。
キャスリーン・ケネディを筆頭にしたシークエル・トリロジーシリーズで、目も当てられない大惨事を招き、もはや虫の息となったSTAR WARSシリーズ。
誰が見ても異様なポリコレ配慮をしまくり歪な作品を作りまくったあと、「すまん、客を楽しませることを忘れてポリコレばっか気にしてたわ」と、盛大な有色人種俳優たちへの梯子外しを行なったDisney本隊。

なんとなくDisneyの映画作品群は大きな分岐点を迎えていると思うのだが、その手の届く範囲に猿の惑星シリーズがいることを思うとなんだかソワソワする。
分かり合えない人類が存在する限りシリーズとしては続けることができる可能性がある以上、今一番欲しいシリーズものだったのかもしれない。

結局のところ、今回もいつもの展開になるっちゃなるので、Disneyとしても「終わり方はいつもの結局分かり合えないよね〜、ぴえん。」に落とし込めば、なんとなく猿の惑星っぽくなるっちゃなるし、私たちは私たちで人類の愚かさを感じながら、映画館を暗澹たる気持ちで出て、「でも映像めちゃくちゃすごかったよな」と称賛するところまでパッケージされていると思えば、これはこれで良かった気がしないでもない、話は進んでないけど。

でも大丈夫、私たちにはコバルト爆弾があるので。
嫌になったらスイッチ押して地球を爆破させて終わりましょう!ヒャッホーーー!
Torichock

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