カラン

イヴの総てのカランのレビュー・感想・評価

イヴの総て(1950年製作の映画)
5.0
☆堂々と恰幅よく

1950年にビリー・ワイルダーの『サンセット大通り』とアカデミー賞レースを争い、作品賞、監督賞、他、合計6部門を獲得したのが、本作『イヴの総て』である。

今観るに、映画的な達成度は『サンセット大通り』には及ばないのじゃないか。賞レースで『サンセット大通り』が破れるに至ったのは、虚栄と精神錯乱というハリウッドシステムが隠してきたものを暴いているからだ。どこかの映画会社の重役がビリー・ワイルダーに怒ったというのだから、賞レースに負けるのは必然だろう。本作も女優や業界人が描かれるが、彼らは演劇界の人々であり、西海岸ではなくて東海岸で活躍しているのである。演劇界の話しの流れで映画界にちょっと当てこすりをしてみても、演劇界の陰影を描くし、映画界が演劇からのステップとされるならば、自分たちが上だと思っていただろう映画界の人たちは、喜んで『イヴの総て』に賞を与えようとしただろう。本作に対してそんな風に冷たく私は観始めた。

それで『イヴの総て』は、止まって話している人物たちをカメラが突っ立って撮っているのは大きな問題じゃないかと、観始めてからけっこう長い間そのように感じたものだった。演劇は舞台の上にいる役者を、映画はスクリーン上の役者を、安定した座席から観る。ここは一緒だが、演劇は役者と観客とが一つに繋がっている劇場の空気を共有している。映画では演者と観客は空間を共有していない。共有していないからこそ映画はショットとモンタージュを武器にできるわけだ。しかし、この映画はその武器を使っていないのではないか、と。

この映画の何よりの魅力は、ゴージャスな女優たちの演技に裏打ちされた恰幅の良い語りにあるのだと、映画が進むほどに魅力が高まってきたことを実感しながら気づいたのであった。私はどちらかというと人間に興味がないし、あわせて、セリフもさして関心がない。が、この『イヴの総て』のマーゴ(ベティ・デイビス)、イヴ(アン・バクスター)、カレン(セレステ・ホルム)たちが発散する人間の存在に不思議な魅力を覚えた。この人たちを堂々と捉えるカメラと編集は、バストショットで正対してセリフが終わるまで切らないということのようだ。


☆印象的なショット①

マーゴの恋人の演出家ビル(ゲイリー・メリル)が、列車で旅立つというので、イヴが手配を済まして、2人だけになるよう送り出した。マーゴとビルはホームに繋がる通路でキスを交わして別れを惜しもうとするところに、手配を済ましたイヴが静かで控えめな闖入者として出現する。旅立つホーム側から人のいない通路で身を寄せる恋人たちを捉えたミディアムショットで、不自然な近さで、伏し目のイヴが佇む。いいショットであるが、さらっといく。迷子の子犬から侍女となるイヴを連れ帰るマーゴを、本当はイヴが持ち帰るシーンだ。


☆印象的なショット②

フィルマのアイコンはマリリン・モンローをフィーチャーしたポスターであるが、彼女はあまり頭の良くない若手という端役。しかし、インパクトを残す。ビルの誕生日のパーティーがマーゴの邸宅で開催され、業界人たちが集う。マーゴはピアニストにリストの『愛の夢』を何度もリピートさせて、泥酔している。イヴの接近と近似にマーゴの自我は沈痛な様子で、周囲がイヴを褒めるほどにマーゴの自我が砕けていく。そんな華々しく哀しいパーティーにプロデューサーに連れられて来たのが、若手女優のカズウェル(マリリン・モンロー)で、お飾りの立場なのにいきなり同伴者の小言を口にするものだから、あっちにいる業界人に名前を売ってきなさいと追い払われるシークエンス。ぽやーんとした定まらない表情であったのが、目当ての業界人に狙いを定めたのか、極上の笑顔を浮かべながら、たっぷりとした画面の余白の先にきりっとした眼差しを向ける。白いマントのようなコートを連れが剥いで預かると、彼女のパールのような首と肩が輝きいだす。モノクロの画面で白色のイブニングドレスより輝く肩である。この映画では後年のようにグラマーな印象ではなく、スレンダーで清廉な輝き。着ていた上着との呆気にとられるほど自然な分離から、ヌーディに変容しながら歩み出す輝かしい一瞬の移動は、これがマリリン・モンローかと舌を巻くショットで、時が止まる。


☆印象的なショット③

ラスト。マーゴやカレンらを踏み台に映画界に羽ばたこうとするイヴが部屋に戻ると、迷子の子犬のフィービーがソファーできちんと座ってうたた寝しているのが、幽霊のように映る。2番目、3番目、無限に続く、自分の栄光を奪っていく若い子の到来の描写は常にゴーストとしてなのである。フィービーも女優志望。皆が女優志望で、皆が自分になりたがっている。そして、皆が自分を奪われていく。フィービーが鏡の前にイヴの服をあてて立つ。鏡像。反射し、少しずつ増えていく。輝度は高い。明るい、優しささえ感じさせる光の中で、乱反射して鏡像が増殖する。未来の女優たちが見えるからだ、この暖かさは。

狂気とゴーストが宿る鏡の乱反射なのに優しい。このラストショットのプロセスに関して、以下にメモを書いておく。


☆語り部の比較から辿るラストの感触の違いに関するメモ

『イヴの総て』のラストの超越が穏やかで優しいのはなぜか。

『サンセット大通り』では脚本家であるジョー(ウィリアム・ホールデン)が、かつて大女優であったが今はうらぶれた富裕のノーマ(グロリア・スワンソン)が企てる返り咲きの計画の片棒を担がされて、脚本をリライトするという内容の映画の語り部となる。つまりジョーは映画を作ろうとする映画のナレーションなので、映画に対してメタレベルに立っている。非常に面白いのは、この映画の冒頭でプールに浮かんでいる死体であることによって、ジョーはメタの位置に立つのである。この構造を模倣したのは『アメリカン・ビューティー』(1999)のレスター(ケヴィン・スペイシー)である。彼も映画の冒頭の時点では既に死んでいる。それゆえ両作品ともに諧謔的で自嘲しているようなナレーションとなっていた。他方で、『イヴの総て』の語り部は大御所の演劇評論家であるアディソン・ドゥイット(ジョージ・サンダース)であり、『サンセット大通り』と同じレトロスペクティブなパースペクティブとなっており、映画の冒頭は語り部が語る物語の最後部なのであり、そこに至る経緯が映画本編の内容となる。違うのは『サンセット大通り』も『アメリカン・ビューティー』も死者が語り部であるが、『イヴの総て』は誰も死んでいないし、大御所の評論家が語り部となり、途中でカレンとの共謀のためにナレーションが中継されることにもなるが、恰幅がよく堂々としている。
 
実は『サンセット大通り』の脚本家の語り部も、『イヴの総て』の評論家の語り部も、若い女からの誘惑を受ける。前者は(そこそこ有名なシーンであるが)友人の婚約者の女と闇夜のキスを交わした上で、彼女は自分を選んでくれたんだ!と感動するも、逡巡の末に彼女との未来を拒む。キスしてから、思い迷って、友人の婚約者を拒否するのが『サンセット大通り』の語り部。しつこいがキスする。(ちなみに『アメリカン・ビューティー』の語り部は娘の友人を誘惑してキスした上でヴァージンと知ってから拒否する。)『イヴの総て』の語り部はイヴを拒否する。イヴを舞台女優として成功させるべく裏で糸を引いている立場であるので、評論家のドゥイットはイヴにホテルの一室で迫られても情事には至らない。実はこうした光の当たるステージの外にいる人間たちは『イヴの総て』においては、皆が善良であり、欺瞞は少ないのである。だからカレンの夫のロイド(ヒュー・マーロウ)もマーゴの婚約者のビルも、イヴの女優としての能力を認めても誘惑は受け付けず、自分のパートナーを裏切る余地はまったくない。欺瞞のもたらす苦しみと成功は女優間の繋がりに巣くっており、間-女優に限定されている。こうしたことが『サンセット大通り』と『イヴの総て』との違いで、ラストの光学的超越の質感をまったく変えているのである。『サンセット大通り』の光学的超越はカメラに向かう全面的狂気であり、『イヴの総て』の場合は鏡の内部への部分的狂気となる。
 
どちらも素晴らしいラストショットでの超越で、どうにも甲乙つけがたい。『イブの総て』が興味深いのは良識と貞淑さに制限されながら、狂気の描出を実現しているところである。そして多くの人に受け入れられるように、つまり、美しく洗練された仕方で狂気の超越を導出したからである。長々と書いてきたが、目から鱗である。こんなに堂々とした態度で映像を通して狂気について語れるものなかと、感銘を受けたのであった。





Blu-rayで視聴。なんとdts HD Master Audio 5.1chのマルチチャンネルサラウンドで、この時代のサウンドとしては、かなり立派である。セリフもぼけておらず、端正なリマスターである。画質も立派。70年以上前のクラシックフィルムなどとは全く感じない仕上がり。
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