Moriuchi

オットーという男のMoriuchiのネタバレレビュー・内容・結末

オットーという男(2022年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

Amazonプライムで『オットーという男』を鑑賞。
オリジナルは、主人公のあまりの偏屈ぶりに嫌気がさして、映画の序盤で停止ボタンを押した。
なのに、リメイクのこちらは自然と物語に入っていけた。それもこれもトム・ハンクスの(役者としての)「人徳」ってやつだろう。オリジナルの主人公と同様に頑迷で偏屈なのに、トム・ハンクスが演じる男には、どこか温かみが滲む。「隠しきれない温もり」のようなものを精緻な芝居で表現できる稀有な俳優。得体の知れない深みを湛えたハリウッドスターである。

物語の本筋からは逸れるが、
「信頼できる、いい親父だった」
と、息子(若かしり頃の主人公)が自分の父を恋人に向かって述懐するくだりがある。
屈託なくそんなふうに言える息子は幸せだな、と思った。放蕩を尽くした親父しか持たぬ僕には、到底無理な科白だ……。

一風変わった塾をやっていて感じるのだが、父と息子の関係の多くが事実上、「終わっちゃってる」。ごく一部の例外を除けば、まったく血の通っていない(冷えて、乾いた)父子関係を見せられ続けた14年だったと言ってもいい。そこに生粋の悪人は一人もいないのに、関係性だけは「悪く」なってゆく(ことがある)。人間関係って(父子関係に限らずだが)、本当に難しい……。

閑話休題。映画に話を戻す。
本作を観ていて自分が感じたことが、ふたつある。ひとつは、
「助けられていると思った時には、本当に助けられている」
ということ。これは当たり前の話。そのまんま、である。
もうひとつは、
「自分では思いもしないところで、思いもしない人が自分を助けてくれていることがある」
ということ。ここに敏感になれるかは、人生の要諦のひとつだと思われる。

先日読んだ菅野久美子の『孤独死大国 予備軍1000万人時代のリアル』というルポに、どういう男が孤独死する可能性が高いかが書かれていた。「誰とも繋がっていない、さみしい男」が孤独死と近いのは論をまたないが、実は「愛し愛されている男」も孤独死しやすいらしいのだ。というのも、その「愛し愛され」の相手を喪ったときの喪失感が甚大ゆえに鬱病に罹ったり、生活が激しく荒れて社会から孤立してしまう男が少なくない、と菅野久美子は書いていた。
本作の主人公のオットーは、まさに「そのてのタイプ」に見える。一度ならず、何度も自殺を試みるあたりは、相当に強い希死念慮に囚われており、何かしらの精神疾患に罹患していると見えなくもない。いつも誰かに怒っていて、何かにカリカリと苛立っている。そういう人間は、必然、孤立する。なぜなら、単純に人から嫌われる(避けられる)だろうから。「私、いつもイライラしている人が好みなんです」って人に出会ったことないもんな……。
オットーは、幸いにも、ある移民家族との出逢いと交流を通して、ようやく前向きに生きることを思い出し、「助け、助けられ」をひとつひとつ繰り返していく中で、新しくて暖かい喜びを拾い直してゆく。
「どういう男が孤独死しにくいか?」
の答えは本作を見れば、自然と分かる。

年齢にかかわらず、人の歴史には挫折と苦難はつきものだ。一部の人間は「死にたい」というところにまで行くことだって、ある。そこから(オットーがそうであったように)再生を遂げるのか。あるいは(オットーがそうなりかけていたように)朽ち果てるのか。人生が一度きりであることを思えば、その差はとてつもなく大きい。
Moriuchi

Moriuchi