春とヒコーキ土岡哲朗

怪物の春とヒコーキ土岡哲朗のレビュー・感想・評価

怪物(2023年製作の映画)
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コミュニケーションを失ったらだれしも怪物に化ける。

人によって見え方は違う。まず体感時間30分ほど、安藤サクラ演じる母親・早織の目線で子供に暴力をふるった教師とそれを隠蔽する学校との闘いをまずは見せられる。永山瑛太演じる暴力をふるった張本人の教師・保利は、言い訳さえ自分の言葉でできない、ふにゃふにゃとした子供のような男。機械的にしゃべることでその場を無感情に乗り切ろうとする校長にも反吐が出る思い。フィクションだが教師によるイジメや学校の隠蔽体質という題材を現実にもある話だなと思って観ていたが、校長ともあろう人間がスーパーで子供に足をひっかけて転ばせるのは、こんなひどい人間はさすがにいないだろう、まさかいるのか、と嫌な気分になった。そして、次は永山瑛太演じる保利の目線で話が語られることになる。ここで、我々が今まで観てきたものは絶対的に正しいわけじゃなかったと思い知らされる。ビルが火事になったとき、そのビル内のガールズバーに保利が行っていたというのが、序盤で我々が聞いた噂話であった。しかし、保利はガールズバーには行っておらず、火事現場の近くに彼女とともに居合わせて教え子たちと出くわしただけだった。おそらくそれを教え子の誰かが「先生が火事の近くで女の人といた」と親に言ったのが、火災したビルのガールズバーから出てきた、に変わったのだろう。観客も登場人物と同様に噂だけ聞いて、事実でないことを本当だと信じていた。これが象徴するように、我々は偏った情報で事実を誤って見ていた。保利が、全然先ほどの母親目線で見えていた人物とは違うことが分かっていく。説明不足いよる誤解で言えば、彼は児童を殴っていなかった。本当に偶然肘が鼻にあたって鼻血を出させてしまっただけだった。また、彼が「母子家庭によくあることですよ。母子家庭あるある。心配しすぎちゃうっていう」などと舐めたことを早織に向かって言ったが、彼自身が母子家庭で育っていたし、過保護になりがちという偏見は恋人から最近言われた言葉がすっと出ただけだった。それでも失礼なのに変わりはないが、彼の主観になるとその発言もとんでもない無礼とは思わなくなる。ただ、ここで大切なのは、彼目線も本当に事実とは言い切れないということ。早織目線での保利の舐めた態度と、保利目線での立ち振る舞いは、情報不足では済まされないどう考えても別の光景。つまり、早織にはあれくらい不遜な態度に見えていて誇張されていただろうし、保利自身は自分を誠実な人間だと思って美化しているであろうということ。もめごとがあるとよく「双方の意見を聞いてみないとわからない」と言うが、この映画で二人の目線をどちらも見た上で、双方の主張なんて事実と事実ではなく主観と主観なので、何もすり合わせできないだろうと思ってしまった。また、早織が良い先生と評したジャージ姿の元担任だが、保利目線では母子家庭を理由に早織を厄介な親扱いしている。よく見えた人がそうではない、という逆のパターン。そして、保利パートが終わると早織の息子・湊の目線になるのだが、その前に少しだけ校長目線のシーンが入る。校長の夫は、駐車場で誤って孫をひいて死なせてしまい、拘置所にいる。その夫との面会の様子が挟まれる。保利パートで亡くなった孫との写真を安藤サクラに見える角度に置くことで同情を誘う作戦に出ていたという人間の屑の一面を見せていた彼女。途中で言われていたように、本当は孫を死なせたのは彼女で、校長という立場を守るために夫が罪をかぶったのかもしれない。そういうことをしうる人だもんな、と我々も思ってしまう。面会のシーンでは、詳しい会話はないのでその件に関しての真実はわからない。そのまま湊目線の物語が進むが、最後に大雨の中必死に湊を探す早織、保利の顔が映ったあと、同様の扱いで校長と、中村獅童演じる依里の父が映る。この二人にも、劇中で語られてこそいないが、早織や保利同様に彼ら目線の物語が存在するということ。彼らの主観をもし観客が見ていたら、彼らの事情も理解できたのだろう。校長は湊との音楽室の会話で「いい人かもしれない」片鱗を見せたが、依里の父は一切そういう部分が描かれていない。ゲイの可能性のある息子を「病気」「豚の脳みそが入っている」「怪物」などと言った最低の父親。でも、彼も大雨の中息子を探しているのであろう姿が映されて、校長に事情があるのかもしれないのと同様に彼にも事情があるのだろう、と思わされた。因数分解が巧すぎる。子供に暴力をふるい悪びれない担任、それを隠蔽する保身的な校長、自分の知っている情報だけで責任を糾弾する母親、子供を支配しようとする父親、何も意思表示せず急に暴れる問題児、いじめや厳しい父のせいでパンクして放火したのかもしれない少年。誰もが怪物に見えうるが、どれも理解と同情ができる人間。人は他人を一面でしか見られないから怪物だと思ってしまうし、自分を都合よくまともだと思っているが他人から見たら怪物なのかもしれない。怪物だーれだの答えは、誰も怪物じゃないし、全員が怪物。

少年たちがゲイであることが判明してから。振り返って、早織の「湊が結婚して家庭を持つまでお母さん頑張るんだ。どこにでもある普通の家庭でいいの」と言った言葉が湊にはプレッシャーだったことが発覚する。また、オネエタレントが笑いものとしてテレビに出ていることも彼にはキツかったことも分かる。思えば、保利が彼女と避妊をせずに行為しようとして彼女にたしなめられるシーンは、その時点では全く意味のないシーンだった。だが、湊が早織の言う「普通の家庭」を持てないと分かると意味が分かる。健康な若い男女であれば、避妊を怠るだけで子供ができる可能性があるくらい、多くの人が妊娠を世の中に存在する当たり前の現象と思っている。しかし、ゲイであればその当たり前だと思われているものが、ない。校長が音楽室で湊に言ったセリフが刺さった。「誰かにしか手に入らないものを幸せとは言わない。誰にでも手に入るものが幸せなんだ」。根拠はないけど、そう言い切ってくれる年上の存在は優しい。依里の父が本人に言ったであろう「お前の脳みそは豚の脳みそなんだ」という言葉が子供には呪いとして焼き付いてしまうように、大人の言葉は子供に世界の真実として聞こえてしまう。それが悪いことばかりでなく、良い方に作用することもあるという瞬間だった。