春とヒコーキ土岡哲朗

悪は存在しないの春とヒコーキ土岡哲朗のネタバレレビュー・内容・結末

悪は存在しない(2023年製作の映画)
-

このレビューはネタバレを含みます

人には人の立場があるけど、それを配慮すれば正しいのか。


上流から下流に影響するのが世の理。

しばらくゆったりと、どんな映画なのか分からないまま時間が経つ。山と、山に囲まれた町の暮らしをゆっくりと見せられる。寡黙な男たちが力仕事をしている。
そこに、都会から芸能事務所の社員たちがやってくる。芸能の仕事とは一切関係ないグランピング施設を、山の中に作ろうとしている。補助金をもらうためだ。社員2人による説明会で、町の住民は金儲けで暮らしを荒らされることへの憤りをぶつける。

このとき、川の汚水の話になり、区長が「上流でしたことは下流に影響する。だから上流に住む者は、それなりの振舞いを求められる。義務がある」と説明する。
川の話でもあるが、あらゆることの例えにもなっていそうな言葉。きっとこの言葉が、映画全体のテーマを捉えるキーワードなのだろうと感じた。

そして、説明会のパートが終わると、東京に帰った芸能事務所社員たちの視点に場面が変わった。
男性社員・高橋は、説明会のシーンでとにかく印象が悪くて嫌いになった。町の若者もタメ口で威嚇する様が嫌だったから、完全に町に味方する気持ちでは見ていなかったけど、それにしても高橋は態度が悪く見えた。山のことを考えている様子もないし、施設の全体像も把握できていないいい加減な説明ぶりにイライラした。

でも、彼らのパートになった瞬間、見え方が変わった。彼も、事務所の社長やコンサルタントに押し付けられてやっている。町の人に散々言われた彼はさすがにこのまま施設を作るのは無理だと理解している。その様子を見て、社長やコンサルが上流、その下流に社員2名がいて、さらにその下流が町の人たち。振る舞いのなっていない上流の行動のせいで、下流にいる者が損をする。
上流下流というのは優劣ではなく、ただ単にいる場所の違い。上流から下流に一方通行で人の行動はつながっていて、それは社会の欠陥ではなくシンプルに世の摂理なんだと、区長の言葉は示していたのだろう。


みんな事情があって、悪い人なんて存在しない。

あれだけ嫌に思った高橋にも、彼の立場があることが分かり、また町も人の意見を受け止めている様子があり、彼も悪い人間ではないのかも、と感じた。「悪は存在しない」とは、そういう意味なのか、とこの段階では思った。
誰かにとって嫌なヤツでも、その人にフォーカスしたらその人も一生懸命生きている人である。敵対関係が発生してしまっても、どちらも悪ではない。
そこから、社長にもう一度町に行くことを命じられた社員2名が、車で町へ向かうシーン。ここで、完全に高橋のことを好きになった。部下の女性社員・黛に、こんな会社やめろよと言う情もある。いら立ちから大声を出して女性社員を怖がらせてしまうところは良くないが、急にいいヤツに描かれることなくリアルで良かった。欠点もありながら、だからと言って完全に悪いヤツではない。


ラストシーン、何が起こっていたのか。

再び町に着いた高橋らは、寡黙な便利屋・巧に山で生きることを教わり始める。そんな折、巧の娘である花が、行方不明になる。巧と高橋がようやく花を見つけると、花は手負いの鹿と見つめあっていた。手負いの鹿は、自衛のために攻撃してくる可能性がある。それを巧から聞いていた高橋は、花を鹿から守ろうと走る。しかし、巧が高橋を後ろから押さえ、地面に倒す。そのまま巧は、高橋の首を絞めて失神させた。
「なぜ巧は高橋を殺そうとしているんだ?」と、映画が一気に不可解で怖くなる。

巧が花のもとに駆け寄ると、もう鹿はいなくなっていて、花は鼻血を出して倒れている。花は死んでいるのだろうか?巧は花を抱きかかえて去る。まだかろうじて息が合った高橋は起き上がるが、有毒なガスを吸ってしまったのか、高橋は再び倒れ、死んでしまったようだ。

巧が駆けつけたら花は倒れていて鹿もいなかったのは、一体どういうことだ。巧と高橋が花を見つけたとき、鹿は最初からいなくて、既に花は死んでいたのか?区長が花に危険エリアについて注意するシーンと、花がハンカチで鼻と口を押さえて歩くシーンがあったことから、有毒ガス地帯はあるはず。そこに区長の言いつけを守らずに一人で行った花は、ガスにより死んでしまった。花も高橋もガスにより死亡。高橋のガスによる死亡は、花もガスで死んだことを教えるためのヒント。花が鹿という他者によってでなくガスという自然現象で死んだことは、世の中はルールの説明が不十分でも容赦なく人を苦しめる、という悪意のない攻撃性を表しているのだろうか(「善悪なんてどうでもよくて、事実だけがある」という意味で『悪は存在しない』)。

でも、ガスによって既に死んでいたのが事実だとしたら、そう描写せずに、花がまだ生きているように見せた理由は何だ。花はまだ生きている・目の前に手負いの鹿がいる、という状況だったことで、自分は以下のように考えることができた。自分にとっては、それが理由。


タイトルの本当の意味は何だ。

巧が高橋の首を絞めた時点では、巧は、高橋が手負いの鹿にやられたことにして殺そうとしたのだと思った。本当は山を開発されたくない巧は、高橋が死ねば鹿の危険性を理由に開発が中止されると踏んだ。手負いの鹿が目の前にいて、こいつに罪を着せればいいんだと気づいた巧は、花を助けるよりも、町の一員の使命として高橋を殺すことを優先した。そう見えた。これが仮に鹿は現実じゃなかったとしても、鹿のせいにできることには変わりない。
そして、『悪は存在しない』というタイトルは、巧の殺人すらも「町民の立場だったらあの行動はとる。だから悪じゃない。あくまで立場のちがい」と言い放っているようでぞっとした。
もしくは、巧の殺人は目撃者がおらず、町の人たちも開発を止めるために巧の味方をするので、巧の悪事は明るみに出ない。そうやって『悪は存在しない』ことになる、という隠蔽を意味しているかとも思った。

事情を知れば誰も悪人じゃないように、事情があるから悪くないと言い張ることで、何事も悪じゃなくなってしまう。そういった「理解の姿勢」や「立場への配慮」の欠陥を突き付けられた気がした。