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フィルム時代の愛のotomisanのレビュー・感想・評価

フィルム時代の愛(2015年製作の映画)
4.1
 結果的に、面白い。

 廃病院と1988年五輪の競技場。いかにもフィルム映画時代と訴える撮影現場だが、そこで起きる「愛」を巡っての映画製作上の意見の対立が説明もないまま発展して殺人事件に絡んでゆくらしいが、殺人に関しては警察からの伝聞、しかも状況からの憶測に過ぎないようで、しかも被疑者の照明君は否認を続けている。

 事の鍵となるのは「愛」のようだが、話中、照明君が監督氏に質す「愛」とは誰の何に対する愛についてだろう。そもそも「愛」とは何事かよくわからぬ。照明君が言う「愛」と監督が思ってる「愛」が同じものかの解明もない。
 ただ、雰囲気だけから伝わるのは照明君が尽力しているであろうライティングに対して監督の求める芝居はどこか不充実であると照明君は異議を申し立てているらしい事である。それに対して監督は、ならばお前が万端指図せよと吹っ掛けるが無理な相談なのは当人が一番よく分かっている。

 では、照明君が不満とする目下撮影中の場面はというと、うつ病を自覚している男とその世話係の看護婦との間の「愛」の状況を演じるという具合と受け取れる。なにしろ、「うつ病男の好意の無理強い」対「今も現に業務中で、かねて男に好意的態度で接してきたと周囲からも解釈された看護婦」であり、勝手ながら見る側はすでにすれ違いを察していて、男の片思いを確信するだろう。
 しかし、そもそもうつ病状態でそれを自覚していると思われる男の「愛」とはどんな事なのか、うつ病を経験し治癒したとされる人にも罹患中の自身の「愛」の記憶を参照して理解できることなのだろうか?
 また、一般に愛とはそれが失せた今になって「愛」に浸っていた時分の心模様を鮮明に回想できるものだろうか?さらにはその解像度は当時と比較可能であろうか、事後良くも悪くもいいように編集、潤色だか変造されたものではないと言い切れるだろうか?

 極端な話、このように監督は「愛」に関する無理無体な話を撮影してあの二人の関係は何事だろうと観客に眉を顰めさせることをその場面の狙いとしているようにも見える。監督の心中に「愛」もへったくれもない、というよりこころに芽生えた愛ではなく「愛」とはどう定義されるものかとして、うつ病というバイアスを設けて組み立てた条件付きの実験用「愛」を狙った事は容易に想像できる。だから、「頭を冷やせ」と照明君を監督席に座らせ言外に伝えるのだ。

 ならば、それらはフィルム時代とどう結びつくのか?また、デジタル化が進んだ今の撮影と何が違うと言うのか?そこが実はよく分からない。ただし強いて想像を働かすとデジタルデータなら後処理の試行錯誤で望むそれに何とかなってしまうのではないか?という事で、フィルム時代には現像の際の操作一発勝負でどうにかするしかないのだろうから、そこは大違いだろうという事だ。
 で、その試行錯誤のせいで乗っかってくる余計なカネと時間をどうしてくれんだと言われれば、所詮これは思考実験としてのこの映画「필름시대사랑」に過ぎないという事だ。

 それを踏まえて照明君はあんな右から左から曖昧な散乱光が溢れた斜路で俺になにをさせたいんだと不満を抱くのは想像がつく。しかもその場面はうつ病者的「愛」の強要への仕返しを受ける男の敢えて報復としてそれを受忍する「覚悟の場面」となるはずであるが、それが彼女への「愛」の証しの場としてふさわしい絵になりうるか、照明係として疑わしくて仕方がないワケだ。
 監督がそうした事件の現場としてあの光の混沌を狙ったのにはあの男女の「愛」を巡る状況の特殊さを際立たせる上で必要と目した結果であるとは想像できるだろうが、それがスクリーンに投影されて観客にどう見えるかはその場面だけでなくその前後の絵の映りと演技、言葉の遣り取りの合成の如何次第でもその適否の評価が変わってくるだろう。

 このように考えを進めてくると監督の撮影作品における「愛」とはあくまでも脳の機能が特殊な状態にあると考えられる男のそれについてであって、それを監督独自の表現で示そうという事で、それが照明君には冒涜的な手段と受け取られてもどうにもならない事だろう。
 ただ、特殊化した愛なりとも急迫した状況でそれの言葉を費やして伝えようのない所を光を操って示す事の冒険性という点で照明君の非難こそ無理無体と思えないでもないだろう。
 それが、ポスターだかジャケ絵だかに記された言葉"You can't define love by words alone"に対する映画らしい光によるいち回答としてのあのリンゴ事件から斜路の場面に至る一連の経過という事と受け取れる。そして、この一実験を通じて愛の各人各様な事の一端を示し、それでも愛は愛に違いないと訴えたい事を想像するのである。

 このように考えるとそのほか、「いろいろな映画作品の真似」場面も「場と音声」版もチャン・リュル監督のお気に入り?そして、対照的な"by words alone"版、比べてごらんという事だろうか。面白い?と言うか?
 ただ、"define"として、男の"love"の如何なるかを伝える言葉の諸々が万一用意済みであったとしても、その場の時間的にも相手の理解可能でない状況的にもそれは用を成さず、その男における愛とは、ああした異様な経過の末、いのちの遣り取りのような行動の形でしかあんたに示せないんだよ、と女に向けて言外に定義するしかない「この男」的に特殊で固有の事であるとの訴えがやはり言葉ではその時あの場面では伝えようがない事を今度は観衆に示していると思える。こうしたややこしい言い回しで敢えて表すのが一番よさそうに思えるくらい、あの場面は凝った何事かを示していると思う。
 それをフィルム時代を生きてるのかすでにデジタル時代を生きてるか分からないがこの監督はあの場のあの光を援用することで補強する、つまり照明君がなす術を知らないあの状況に賭けているという事である。
 それは対して照明君においてはフィルム時代的採光と照明係への冒涜事件であり、デジタル時代ならば照明君の存在理由を破壊する別種の冒涜亊という事になる。

 さて、その時のあの男女について殺人に発展する本件がその間どう経過したのか断片的な話しか受け取れないので仕方がない。愛についての男二人の間の混沌も未決着だし、照明君のどこか要領を得ない感じも死に体な照明世界と揶揄するようでいやらしい。こんないつまでも反芻が続くネタを放られてチャン監督のほくそ笑みが透けて見えるようだ。どうしてくれる馬鹿野郎。
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