セーヌ川で岸に繋がれたアダマン号と、橋のうえを絶えず行きかう車や川を下る船を同時に映す冒頭と終盤のロングショットが印象的だった。忙しない世界と隣り合いながら、ぷかぷか浮いているアダマン号。ケアの現場を映像にすることは、ケアする者とケアされる者を明らかにしない、というメリットがあると思った。文章で描写する時は、「患者が」「医師が」「ソーシャルワーカーが」といった主語が必要になるが、映像だとその必要はないからだ。もちろん誰がケアしていて、誰がケアしていない、というのは明らかにされなくても何となく分かるものの、治療者と患者のやり取りとして意味づけることから逃れて、その手前で何が起こっているのか見えるようになる気がする。
『アダマン号に乗って』の映画評の多くは、精神疾患とともに生きる人々がいかに創造的に生きることができるか、可能性を示していると述べている。この映画が秀逸なのは、現代の日本においても不可視化されているそうした可能性と一緒に、表面上は穏やかなアダマン号の日常が、実はいつ壊れてもおかしくない不安定さを孕んでいることもまた、示し続けるからではないか。ダンスのワークショップをする能力が自分にはあるのにさせてもらえない、認められていないと感じている利用者の不満、描いた絵のことを皆の前で説明するときに不意に噴き出た性についての話題、「皆さんには存在したいという欲求がある」と発言した新任の精神科医と他のスタッフや利用者とのあいだに流れたなんともいいがたい気まずさ、たった今撮影された自分の顔を見て「精神科病院に居た頃を思い出す」と何気なく呟いた男性。僅かな不安定さを帯びた一連の具体的な出来事が、映画の終盤のテロップ「これからも(アダマン号は続いていくだろうか)?」の「?」という疑問符に収斂している。