グーロフ

夜明けのすべてのグーロフのレビュー・感想・評価

夜明けのすべて(2024年製作の映画)
4.8
ここ最近、「声」「音」にこだわった映画を、立てつづけに観る機会に恵まれた。『ストップ・メイキング・センス 4Kレストア』『瞳をとじて』、そしてこの『夜明けのすべて』だ。

本作のファーストシーンは、意表をついて、藤沢さん(上白石萌音)の長いモノローグの声で始まる。そして降りしきる雨音、彼女が発する怒りや謝罪のことば、深いため息…。いつの間にかそれらの「声」「音」に吸い込まれるように耳を澄ませていた。

「声」「音」に続けて惹きつけられたのは、なにげないワンカットが想起させてくれた過去の映画の「記憶」だ。
たとえば、室内から扉や窓の開口部越しに覗いた戸外の風景は『捜索者』や『晩春』を、また劇中くりかえして挿入される列車のロングショットは『東京物語』や『珈琲時光』を思い出させる。さらに、移動式プラネタリウムのシーンや中学生によるビデオ撮影シーンは、ずばり「映画」そのものへ原点回帰とでもいえそうな喜びをあふらせる。

16ミリフィルムで撮られた画面は、隅々までくっきり映り込むことなく、どこか柔らかな物腰で心地よい。これらの何気ない映像が、「物語」によるバイアスからも解き放たれてストレートに眼に沁み入り、一映画ファンとしてじんわり涙がこみ上げてきた。

涙腺決壊(?!)のピークは、山添くん(松村北斗)が、早退した藤沢さんに忘れ物を届けるため“職場の制服”をさっと羽織り、かつて藤沢さんから押しつけられた“自転車”に乗って坂道を下るあたり。このときの自転車のスピード、やわらかな日差し、山添くんの表情といったら!

藤沢さんの方も映画が進むにつれて次第にくつろいだ表情を見せる。山添くんの部屋でポテチの缶に口をあてて一気食いしたり、パンやミカンをほおばりながら歩いたり…。彼女の人となりがほんわか滲む印象的なシーンだ。

このふたりの距離感は『はじまりのうた』のキーラ・ナイトレイとマーク・ラファロの関係に少し似ているといえるだろうか。異質な他人とどんな言葉を交わし、異なる価値観や生き様に橋を架けていくか。その過程におけるふたりの会話がじつにスリリング。やがてふたりが職場や元上司、友人らにも支えられ、その丘を越えた向こうに、仄かな連帯が広がっていく。

そして映画は終盤、主な登場人物たちが一堂に会する「移動式プラネタリウム」のシーンに至る。

実はつい先日、メディア・アーティスト高谷史郎氏の新作パフォーマンス『tangent』を観たのだが、ここでも本作に一脈通ずることがテーマとなっていた。公演パンフレットから同氏の言葉を一部引用させていただくと、「夜明け直前と日没直後の太陽光線が地球に接している場所や、何かが『触れ合う』ことで音が発生するなど、その接線/接点の中の『見える/見えない』『聞こえる/聞こえない』グラデーションの部分にフォーカスを当て」ることによって、「その、薄明りのグラデーションの中では、ものがはっきり見えないことで、さまざまな存在について感じ」「小さな存在の我々が、地球という大きな球の上に立っていると感じることができる」。

映画もまた、人の意思や都合とは無関係に運行する「宇宙」や「地球」のスケールを、登場人物たちだけでなく私たちにもそっと示し、今の自分の立ち位置や周囲の風景・人々を知るための新たな視点を教えてくれるのだ。

本作が描くものはけっして他人事でも特別なことでもない。ふだん私たちが否応なく感じさせられる無力感や幻滅。どんなに頑張っても思いどおりにいかない。そんな「どうにもならないこと」といかに折り合い、かすかな希望を見出していくか。本作は、それを考えるためのヒントを示す。鑑賞後、自分のキモチが少し軽くなったのに気づいた。

…中盤以降さまざまな想いが胸をよぎり、何度も涙で霞んでしまって「見落とし」もありそう。もう一度、劇場に観に行くつもりだ。
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