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さらば、わが愛/覇王別姫 4KのNSのネタバレレビュー・内容・結末

5.0

このレビューはネタバレを含みます

たとえば、レスリー・チャンが演じる程蝶衣、あるいは虞姫を演じる程蝶衣が、男であるのか女であるのか。それを判然とさせることは出来ないし、またさせることに意味がある訳でもない。蝶衣は劇中、最後まで、そらんじる台詞の中でも自らを「女である」と言い切れる訳でもなく、かと言ってやはり「男である」という人生を歩んで来れた訳でもない。彼は結局、最期まで、男女の別の狭間で揺れ続けるしかない。

文革による吊し上げの場面、脅迫を受けて蝶衣や菊仙を糾弾する小樓は、あるいはその場凌ぎのつもりで糾弾を“演じた”のかも知れない。微妙に芝居掛かった身振り口振りはその風を思わせるが、それで吐き出された言葉は、じつのところ小樓自身にとっても思わぬ本音だったのかも知れず、しかしそれが蝶衣と菊仙を決定的に傷つけて、菊仙は死ぬ。人のひとつの振る舞いが虚であるのか実であるのか、俄かには判然とさせることは出来ないが、しかしだとしても、現に吐き出された言葉は人を傷つけて、その命を断つことさえある。

レスリー・チャンが演じる程蝶衣は、「美しい」と言えばたしかに美しいとも言えるが、しかしべつな視点から見れば、やはり男でありながら女でもある様な一種文字通りの「化け物」とも言え、つまりはそこでも、見方によっては美でもあれば醜でもある様なその存在の「属性」は判然とさせることが出来ない。むしろそれを判然とさせることが出来ないことこそが、その曰く言い難い「魅力」そのものでもあるのかも知れず。

男女や、虚実や、美醜の狭間で、その物語の中の人物達は生きている。それは昨今のいわゆる「LGBTQ」という様な尤もらしい社会的な判別化以前の、未分化的な実存の物語である様に見える。蝶衣も小樓も、兄弟弟子という少年期の関係性を生涯の紐帯として生きて来なければならなかっただけで、必ずしも同性愛や異性愛の分化にその物語の本質はない。

そんな物語を、映画は、中華圏的な身体所作のケレンの中で描く。原作者の手による脚本はともすれば作劇的な意図が露骨に思われる様な場面や台詞を展開するが、映画はそれを、半ば様式ばってさえ見える様な人物の身体所作を介して具体的な画面にする。たとえば、ときに挿入される人物のショットが京劇役者の劇的な瞬間の“決め”のポーズの様に画面に嵌るからこそ、映画はその虚構を一定の水準で維持し続けることが出来る。

ものを火に焚べる、というモチーフがある。幼少時代の蝶衣は、母親に預けられた衣を自らの手で火に焚べる。以来その映画の中では、“捨て去られるもの”はほとんど全て、人の手によって燃やされることになる。故にだとすれば、文革による吊し上げの場面は、言わば小樓、蝶衣、菊仙の三者自身、互いに互いが捨て去られる=火に焚べられる場面なのだとも言えるだろう。
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