皿と箸

ミッシングの皿と箸のネタバレレビュー・内容・結末

ミッシング(2024年製作の映画)
4.6

このレビューはネタバレを含みます

吉田監督作の中でいうと舞台や企画としては「空白」の姉妹作であるような位置付けですが、「起きそうな事が起きない」事での興味の持続という意味では「Blue」に近い方法論だなと感じました。

同時に鑑賞後に自分の考えや思いが全く言葉にまとまらない映画でした。おそらく過去最も観る人によって違う印象になる作品だと思います。
それを可能にしているのは、石原さとみ含めてキャスト陣の圧倒的な表現力と、単に失踪モノとしてだけでなく、職業やローカルコミュニティなど、描かれているものの濃度が圧倒的かつ多面的で、現象の構造・キャラクター同士の関係性・個人としての感情や振る舞いの複雑性、全てが混じり合い、ほとんどこの現実社会と同じような解像度を描けているからだと思います。
「今の社会で子供が失踪するとどんな目に遭うのか?」という思考実験をそのまま映画にしたような感じです。

娘が失踪した後から話しが始まるのと、最後まで結局ストーリーとしてはほとんど何も起きてないので、本来なら退屈になるはずなのですが、サスペンス的な引っ張りと石原さとみ始め演者の表現力が飽きさせない。
このバランスは「敢えて感情移入させすぎないようにした」との事で、マスコミから流れてくる悲しいニュースを他人事で流し見する距離感をメタ認知できるように意図を持った構成になっています。

また今作は、砂田とそれを取り巻くメディア側のキャラクターや環境を深く描く事で「職場としてのメディア」という視点が入り、メディア内部の力学や営利企業としての存在意義と公共性という矛盾の中で、時に欲望に従ったり、時に正義に従ったり、時に組織に従ったり、大いに翻弄されながら人は善にもなれば悪にもなるという複雑性を描く事で、「失踪した娘を探す夫婦」というメインストーリーと絡み合って混沌としていきます。

夫婦はそのメディアを時に利用し、時に利用されながら娘を探すのですが、「事実をありのまま報じる」という砂田の言葉が後輩への嫉妬、組織への怒り、数字を取らないと取材が継続できない現実など複雑に絡み合い、次第にヤラセ的になってくる様は現代の病理をそのまま描いています。
自らが批判した対象と同化せざるを得ない社会的な構造がある事に気が付かされますし、映画というメディアこそが壮大なヤラセという意味でも人が何かを切り取るという行為は必然的・無意識的に「意図」が同居せざるを得ないという理解に基づいた監督の内省でもあります。

誰もが無意識のうちに何かを失っていく。
誰もがそれなりに良い人でありながら、お互いに傷つけ合ってしまうのはこの社会が共同幻想を失ってしまったからなのでしょう。

それでも自分がいくら辛い状況でも、人の幸せを願い、人の不幸を悲しむ事ができる石原さとみ演じる沙織里を美しく描き、それが誰かに伝わり、また返ってくる。
そして最後にそれまで努めて冷静だった青木崇高演じる夫がいよいよ感極まるシーンは涙なしには観れませんでした。

吉田監督の作品は辛いんだけど、いつも最後にフッとささやかな、普遍的な希望が描かれていて本当にズルいなぁと思う。
いよいよ本当に名作しか撮ってない恐ろしいフィルモグラフィ、キャリアになって来ましたね。
皿と箸

皿と箸