にゃーめん

首のにゃーめんのレビュー・感想・評価

(2023年製作の映画)
3.7
北野武の新作、戦国コント「首」

日本を代表する映画監督としての北野武のというより、芸人のビートたけしとしてのなじみの方がある世代のため、今作は、大層金のかかった贅沢なコント作品を観ているのだと、鑑賞途中で頭が切り替わった。

その壮大なコントのオチをみて、現代に生きる者にとっての「首」とはなんだろうかと考えてしまった。

戦国時代において「首級をあげる」という事は、それ即ち、現代でいう「出世」「昇進」で、敵の大将首を切り落とし自軍へ持ち帰ることこそが、武将にとっては天下統一への唯一の手段であり、

武家に生まれる事が出来なかった農民にとっては、自らの身分を変えるための唯一の手段なので、それはそれは「首」への執着が武家出身者より強い。

立身出世という「首」も、権力という「首」も欲しく無い人でも、「承認欲求を満たしたい」という目に見えて、形のある"首"がそれはそれは欲しいのでは無いだろうか。

承認欲求のために、嘘をつき、人を騙し、言葉という刀で人を傷つけ、人の心を弓矢射り、槍で突き、そうして得た「首」を高々と掲げて、「獲ったどーーー!!」と叫んでいないだろうか。

または、そういった「首」を得た人の社会的凋落を(京都六条河原での斬首シーン)野次馬して喜ぶ側になっていないだろうか。

それをビートたけしの演じる秀吉側側からいわせると「首」なんてどうでもいい。
なんともシニカルな笑いのオチである。

作中の信長が好んだと伝わる能の演目「敦盛」の舞を差し込むことで、信長自身もこの時代に生きることの虚しさを感じていたという演出がとても生きていた。

「敦盛」の一節
「人間五十年 下天のうちを比ぶれば 夢幻のごとくなり ひとたび生を得て 滅せぬもののあるべきか」

大意で訳すと
「人間の一生は所詮五十年にすぎない。天上世界の時間の流れに比べたらまるで夢や幻のようなものだ。命あるものはすべて滅びてしまうものなどだ」
という意味だそう。

「人生はどうせ死ぬまでの暇つぶしじゃあ〜」という信長のセリフと合わせて
能の演出を観ると、第六天魔王と呼ばれた信長も、実は厭世的だったという解釈が北野武的である。

信長が男色家であるという演出で、他の武将達との関係性を描いていたのも面白く、明智光秀演じる西島秀俊は特に適役だったように思う(「きのう何食べた」でのシロさんを彷彿としてしまった😅)

農民から成り上がった秀吉を重ねるような茂助(中村獅童)のキャラクターの造形も良く、首に拘るだけでなく、知力や人たらしの魅力もないと秀吉のようには成り上がれないという悲しい結末を描いており、壮大なコントに厚みを与えていた。
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