四番手

PERFECT DAYSの四番手のレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
4.5
2023年の映画納めとして、とりたててヴィム・ヴェンダースのファンというわけでもない自分であるから、それほど感動も興奮もなく静かに見終えて帰るだけで済みそうという理由で、この作品を選んだ。実際、その程度の腹積もりだった。

どうせ高尚ぶってサブカルめかした映画なんだろう、俺はそんなものにいちいち感心なんかしてやらないぞ、という侮りの気持ちがどこかにあったのである。

だが――結果、自分にとって今年最も没入して観た作品となった。


主人公・平山の生活は孤独な円環であり、あたかも儀式のように繰り返される。

だが、平山は社会のアウトサイダーというわけではない。トイレ掃除という街の汚れを引き受ける役を果たした後、その身は銭湯で清められ、店でふるまわれる料理と酒で癒やされる。街の浄/不浄は日々、それに関わるすべての人びとの営みとともに、平山の身体をも通って回り続けている。平山の儀式めいた生活は、東京という街のリズムと常に調和している。

彼は人を遠ざけはしないが、近づくこともしない。その姿勢は「友達」である樹、そしてその化身ともみなせる踊る老人、あるいは過去に何かあったらしい肉親に対しても同じである。彼の日常の半径は常に固定されており、自らそれを越えようとはしない。

平山の日常は彼の世界そのものであり、同時にその世界をそのようにあらしめつづけるための儀式なのである。


しかし、その完璧に静止しつつ回るように見える平山の日常であるが、その実、外からの闖入者によっていつも動揺させられている。

仕事中に向けられる悪意や善意、あるいは何気ない視線のような微風から、激務や突然の訪問者という暴風まで――平山のささやかな生活と、表には出さないが確かに存在する喜怒哀楽の感情は、世界の円い枠を越えて吹いてくる風にさらされていつもゆれている。

平山がただの神経症的な完璧主義、ルーティンをなによりも大事にするだけの人間であれば、おそらくそのことに苛立ち、激怒することであろう。だが、そんな瞬間を思い出しては、彼は笑うのである。

平山はいわば、静止してあり続けながら風に揺れ、ひと度も同じではない一瞬の影を生じさせ続ける樹なのだ。そして、風にゆらされた木の葉がいくつか重なってその影を濃くする瞬間の姿が、外から注がれる曖昧で柔らかな光とともに記憶されることで、はじめて彼のその日は「パーフェクト」となるのである。


――ここで極めて個人的な話をすると、今年の私は世俗からつとめて距離を取り、クラシックロックを(Spotifyで)聴きながら早朝の東京の街をながめ、木々の間を散策しながらオリンパスの(デジタル)カメラで雑草や葉の写真を撮り、夜はフォークナーを(電子書籍で)読みながら寝落ちする、そんな日々を過ごしていた。そんな主人公との共通項の多さが、私がこの物語に没入したひとつの理由であることは間違いない。

だが、その生活は私にとって、自分の心を乱すもの、私の世界をそのままあらしめることを許さないものからの逃避であり、同時に自分の世界を思うままに展開できないことからの逃避でもあった。風が吹いても吹かなくても、それは苛立ちの元であった。

円環的な生活は、直線的に老いるしかない人間にとっては、止めどない沈降を意味する。そして、孤独な生活者の多くは、平山よりかは私に性質が近いのではないのだろうか。

そもそも、本当に孤独な者にはわずかな風すら吹き付けることはないのであろう。揺れることない樹は木漏れ日の煌めきを生むこともなく、ただ強い陽光に灼かれるか、暗闇で倒れ朽ちていくのみである。


孤独死大国の日本のリアリティには、もしかしたら平山のような男の居場所は存在しないかもしれない。

だが、それでいいのだ。

平山という人物の希有さがゆえに、この映画はファンタジー、エンターテイメント作品として我々の心の緑をゆさぶるのである。
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