役所広司の贅沢使いにもほどがあるだろ!(好き)
東京の下町にひとり住み、都心の公共トイレ清掃を生業にする中年男性の「平山」は、規則正しくつつましく、日々のルーティーンの中で暮らしていた。
朝起きて、布団をたたみ、盆栽に水をやり、缶コーヒーを買い、車に乗って仕事に出かけ、完璧にこなし、明るいうちに帰ってきて銭湯。そのあと給料日前はガード下、給料が出たらあの店に行く。布団に入ると単行本を読んで眠くなったら寝る。
そんな日々でも突然に、あるいは少しずつ、大きくまたは小さく、受動的に変わるものがある。
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情報が、情報のほうから過多にプッシュされてくるこの時代の環境で、自分が納得するまで自分のその日の仕事をまっとうして、布団で本をちょっと読んで、眠くなったら寝る。翌朝は空を見上げて微笑んで仕事に出る。なんてできるんだろうか。
まったく、こんな人間、憧れでしかない。自分と比べてちょっとイラっとした。
平山さん、昔にどれだけ人に言えないつらいことがあったんだろうか。どれだけうそをついているんだろうか。どうして無口になったのだろうか。全部心に秘めて朝を迎えて、、、パーフェクト・デイズ。本当か?ねえ、本当ですか。
そもそもパーフェクトな日なんてあるはずもなく、あるはずもないから外から無理やりラベリングしているに過ぎない。しかも複数形だし。
平山だってそう思っているのではないか。ステレオタイプってわけじゃないけど、、、いや、やっぱりステレオタイプだな。「パーフェクト・デイズ」なんて。そうか。珍しくステレオタイプが良い意味でしっくりくる。強い決めつけもたまには必要。
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私は内向的な人が好きです。特に無口に憧れています。(どうやら、私は内向的ではあるものの、無口ではないそうです。誰に聞いてもそういわれます。)
平山は、伏し目がちなこともなく公園では初見の人にも会釈するなど、きっと外交的なんだと思う。外交的な無口、、、それだ。私の理想はたぶんそれだ!!
責任感のある平山は、物静かではありますが、同僚が突然辞めてしまって現場が回らず、シフトを押し付けられたとき、カバーしながらも雇い主に大きい声ではっきりとクレームをいれていましたので、優先順位というか、譲れないものは日常、それ自体であることがよくわかります。
逆に言えば、そのこと以外は興味がなく、どうでもいいのかもしれません。
かっこいいな。そのように私はなりたい。
この映画は、その「どうでもよいこと」の部分について、平山の外からプッシュ通知のように土足で踏み込んでくる小さい物語がたくさん入っています。
でも、意外なことに平山はどうやらそれをストレスに感じていない様子。きっと後天的に無口になったんだと思う。
映画では全く語られないけど、平山は平山に満足しているように思う。帰って来ない金も平気で貸す。自分に満足できるなんて、それだけで尊敬です。
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平山が言う「変わらないなんて、ばかなことありますか!」
お前が言うんかい!と思ったけど、ちょっと思い起こすと、この映画の深みはここに集約されているように思いました。
平山は、これからも朝が来たら同じような日を開始して、仕事をして、同じように眠るでしょう。でも変わっている。
一体平山の何が変わるんだろうか。平山がなぜわざわざ「変わらない」ことを強く否定するのか。
平山はどうやらもう「変わり切った成れの果て」の様でもありますが、日々変わり続ける「それ」と静かだけど目まぐるしい変化に向き合っている。そしてそれを理解して整理し、自分の中にしまう作業を毎日しているんだと思いました。
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映画を観終わって、喫茶店にちょこんと座っています。いろいろ思いを巡らせて、もしかしたら、もしかしたらだけども、この映画は「言いたいことはありません」といったのではないかとすら思っています。
そして、(また)考えすぎて失敗するパターンに入っているな、とも思っています笑
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この映画、日本で評価されてほしい。木漏れ日という美しい言葉のあるこの国で。
私には刺さりました。若者には刺さらないかもだけど、刺さらない映画を、刺さらないうちに観るのもすごく重要なんだということ、今ならわかります。
冪等性が低いイテレータブルな日々を、パーフェクト・デイズと呼ぶ。明日は来る。絶対に。
Thank you!