ysk

PERFECT DAYSのyskのレビュー・感想・評価

PERFECT DAYS(2023年製作の映画)
5.0
とてもよかった。始まりから終わりまで素晴らしい映画だった。

綺麗すぎるという批判があるようだが、全くそんな風には思えない。木々や鉱物が刻む途方もない時間に安心感を覚える人だっている。袖振り合う程度の儚い関係にも寂しさと美しさを感じ、その一瞬を大切にする人だっている。その小さな歓びが侵略されないように護っているだけなのだ。

この映画は建築家が設計した渋谷の公共トイレを清掃する清掃員平山の日常の話だ。

平山は朝の明け方に起きて身だしなみを整え、植物の世話をし、玄関を開けて空を見上げ、自販機で缶コーヒーを買い、車でそれを飲みながら職場に向かい、途中でカセットテープを流し、道ゆく人を微笑みながら眺めるというルーティーンで1日が始まる。
もうこの時点で、彼を傷つける周りの有象無象が入り込む余地などない完璧なスタートを切るのだ。そして職場に着くとエンジンを切るタイミングで音楽が途切れ、それが仕事に向かうスイッチとなりトイレ掃除をするモードに切り替わる。そして仕事を黙々とこなしていく。

街に出れば当然出会いと別れがあり、そこでいくつかドラマがあるのだが、平山は様々な他者と良い距離感を保ちつつ、当然の如く良い関係を結んでしまう。

それが子供であっても大人であっても、同僚であっても、男であっても女であっても、はたまた木漏れ日であっても、御神木であっても、もう死んでしまっている作家であっても、顔の見えない相手であってもだ。決して他者を軽んじたりしない。

平山と出会えば、人は必ず癒されていく。まるで砂漠の真ん中にあるオアシスのようだ。人は代わるがわる平山の元に水を汲みに来ているように見える。側にいて微笑み合い、何気ない会話を少しする。ただそれだけだ。それだけなんだが、平山の側にいると潤っていく。それはきっと常に希望を与えてくれる不思議なトーンでいてくれるからなんじゃないか。それを演じる役所広司の佇まいが本当に素晴らしかった。

良い関係を結ぶとは、互いに分かりあうということではない。他者は基本的に分からない。分からないけど、お互い良い感じで居れる距離を保つ、楽しめる仲を保つ、余裕があれば自分が変わることもいとわないという態度のことであり、敬意を持って接するということだ。そうすると様々なものと良い関係を結ぶことができ、自分の暮らしがどんどん豊かになっていく。

そして彼にとっての他者とは、人間や生物だけではない。彼にかかれば毎朝明け方にする箒の掃く“音“とも良い関係を結んでしまえるのだ。これは痺れた。
彼の1日はこうして完璧に悔いなく終わっていく。

トイレの清掃員というと、社会的なヒエラルキーで言えばもしかしたら底辺なのかもしれない。トイレの清掃員をやっていますなんて、恥ずかしくて言えない空気感が間違いなくある。
映画の中で親戚にそれを気遣われる場面もあるが、平山にとってそんなことは関係ない。ここもまた痺れた。平山の過去になにがあったのか、詳細は明かされないが想像はできる。そして平山はそうではない生き方に希望を見い出し、周りに左右されることなく明確に自分で選んでいるのだ。かっこいい。
人の生き方の良し悪しを他人が断定することはできない。自分の生き方の方が、あの人より優れている楽しい、劣っている苦しいなんてどうして言い切れるのか。苦しい場面や楽しい場面があるだけで、それはどんな生き方をしていても平等に訪れるはずだ。もしも苦しい生き方を知っているとすれば、それは苦しい場面だけを切り貼りしたものを見せられているということではないか?(逆もまた然り)

平山はトイレの清掃員であることに誇りを持っている。それはこの東京という過密都市で疲弊しながらもなんとか過ごしている人々への利他的な精神から湧くものなんじゃないかという気がする。

生命をざっくり分ければ、植物と動物と微生物に分かれる。それぞれ棲み分けがなされているが、地球というフィールドでは地続きである。どんな種も他種をうまく利用し、他種にうまく利用されて生態系が調和している。
それを東京の都市に重ねれば、植物とは地方の農家や生産者、動物とは都市の労働者、微生物とは文字通りそれらの排泄物を分解する、あるいはオアシス的で居続けてくれる平山のような者のことではないか。
けれど生命の循環の世界には「資本主義」は存在しない。人間の世界にのみ何故か存在するのだ。
平山はそんな主義や主張に振り回されて疲弊した人々の“情“に寄り添い、淀みを静かに分解してくれている微生物のように私には思える。そんな完璧な1日を構築しながら利他に突き抜け、都市に寄り添ってくれている平山の生き方を見ているとどうしても泣きたくなってしまう。
ysk

ysk