このレビューはネタバレを含みます
宗教とは一体なんなのか。
ユダヤ人一家の6歳の男児エドガルドが、本人や家族の意図と反してその一家の召使いからキリスト教の洗礼を赤子の頃に受けたという理由から、彼は家族のもとから無理やり引き離されてしまう。
クリスチャンは異教徒の家庭で暮らすことは出来ないからだと言う。
召使いの女性は、赤ん坊のエドガルドが死に至る病にかかったと勘違いし「洗礼もせずに死ねば辺獄に行くし、それを無視すればお前は罪人になる」と近所の商店のおじさんから聞いたばかりに、彼女は洗礼を施してしまう。
教養すらない女性からの超簡易的な洗礼でも、エドガルドは立派なクリスチャンとされるようだ。
僅か6歳の子どもが親元から無理やり引き離されてしまう悲しみは想像を絶する。
私の可愛い天使のような5歳の甥だったらと考えると…気持ちが悪くなってくる。
両親は世界中のユダヤ人コミュニティにこの事件を訴え、あのロスチャイルドも遺憾を表明し、裁判を起こすことが出来た。しかし、あの出来事が不条理だと裁判所が認めることはあっても、国の体制が変わった今では当時の誰も裁くことは出来ないという結論に至った。
この判決を聞いた父親は絶望し打ちひしがれる。
この後直ぐに10年の時が経ち、エドガルドは家族が深く悲しむ程の敬虔なクリスチャンになっていたが、一方で突然不安定になる描写もあった。
それでも、結果的にエドガルドはキリスト教になったことを"幸福"と感じていたようだ。
母親の今際の際にキリスト教への改宗を勧める程に。
それはきっと、洗脳のような側面は否定できないにしても、エドガルドが虐げられたり惨めな思いをしていたわけではなく、守られながらそれなりに充実した生活を送っていたからかもしれない。
迫害され続けたユダヤ人の暮らしと比べてもそう思ってしまう。
当時のカトリック教会の長は教皇領の王様でもあり、絶大な権力を有しながら傲慢さもあった。原題『Rapito(誘拐)』と、痛烈なタイトルが付けられるくらいに。
信仰は人を強くもするし、他人に施しを与える優しさを持つこともあれば、時に残酷なまでに他宗教を見下し、傲慢にもさせる。
それでも多くの、何億、何十億という人々に信じる心を持たせることが出来るのは何故か。
私は宗教映画を観る度に、その疑問が解決されないかとにわかに期待するが、未だその兆しは見えない。
それどころか、謎は深まるばかりだ。