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About Dry Grasses(英題)のnetfilmsのレビュー・感想・評価

About Dry Grasses(英題)(2023年製作の映画)
4.3
 『昔々、アナトリアで』の象徴的な街だったアナトリアの僻地にある公立学校の美術教師サメットの帰還から物語は始まる。雪の中をスーパー・ロング・ショットの画角で歩き出す彼の足取りはどこか重く、彼のこの街への感情が垣間見える。彼はこの街をただただ憎み、イスタンブールへの赴任を切望している。下宿相手は同僚の教師で人当たりの良いケナンで、別の学校の英語教師の女性ヌライを彼に紹介したことから物語は思わぬ方向へと進んで行く。お気に入りの女教師とお気に入りの生徒セヴィム。どちらも聡明で私にはサメットが2人の女性に同じような感情を抱きつつあることがわかるのだが、彼の付いた何気ない嘘が事態を深刻化させる。当初は聖人君主の帰還に見えたサメットのここへの帰還から、徐々に彼の中の綻びが大きくなって行く。一つは生徒セヴィムが書いたラブレターへの嘘。そしてもう一つはひとつはヌライに対して土曜の夜にケナンも誘ったという大きな嘘である。

 サメットが付いた何気ない嘘は彼の周りの環境や人々に波紋を投げ掛ける。そもそもケナンにヌライを紹介してやろうかなどと提案したのがそもそもの間違いで、彼女のことが好きなら最初から好きだと言えば良かったのだ。またお気に入りの生徒セヴィムのラブレター没収は、彼のトクシック・マスキュリニティが招いた醜い嫉妬だろう。徐々に精神が崩壊し、人相がボロボロに崩れて行くサメットの表情は何とも皮肉としか言いようがない。途中までロング・ショットによる長回しを多用する一方、セヴィムとヌライは入れ構造のように中盤以降ヌライがサメットの元へ立ち現れると、彼の見えない欲望がゆっくりと可視化される。両親が留守のヌライの部屋でテーブル越しに会話をするサメットとヌライの描写は細やかなリバース・ショットで示され、欲望を隠し切れないサメットの視線には孤独の病床が見える。静けさの中に人間の弱さと狂気が宿り、それを告発しようとした女性の仕草に威厳を守るべく主人公は怯む。論戦では後手に回りながらも、男らしさを誇示しようとする主人公の哀れが滲む。ヌライにとってはパンツを脱ぐことよりも、義足を外すあの瞬間にこそエモーショナルが搔き立てられる。彼女の部屋の電気を暗くした直後に並行世界に傾れ込む場面には客席から驚愕のため息が漏れたほどだ。カンヌ国際映画祭最優秀男優賞に『PERFECT DAYS』の役所広司が輝き、ヌライを演じたメルヴェ・ディズダルが女優賞を受賞した一方で、今年の3賞に今作が滑り込めなかったのは是枝裕和の『怪物』と教師と生徒の主題が被ってしまった事も大きいのではないか。
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