思ってたんと違いすぎて。
作家のサンドラは女子大生からインタビューを受けていた。彼女は作品について聞かれていた。上階にいる夫は大きな音で音楽をかけ、ログハウスの改装作業している。声も聞き取れぬ音量に、学生は帰って行った。一人息子のダニエルは犬を連れて散歩に出かけた。帰宅しても相変わらず大音量で音楽は鳴り響いている。しかしそれを聞いている人の心音は止まっていた。
不審な点が多い。女子大生を追い払うかのような音楽、うるさいのにその中で昼寝をした妻、散歩に行く際息子が聞いたという両親の会話する声。サンドラは法廷に立たされていた。
ミステリーやサスペンスだと思って観に行ったのでなんやこれと正直思った。煮え切らねえ。何観てたの?
人間は内部に思想や記憶を湛える手水鉢のようなものだ。時に干上がり、時に水が溢れ、時に雨で満たされ水が入れ替わる。人間の内部にある記憶は流動的で、留めるには書き起こしたり録音すなど外部に頼らねばならない。少し前のことすらも流れている。
事故から一年たち、それぞれがあの日、そしてその前の出来事を話す。記憶も流動的だが、感受性もまた移り変わる。あの日何があったかをそのままに留める音声ファイルは、あの日の前日の口論を記録していた。目は口ほどにものを言うとか表現があるが、言語化せねば誰かに記憶や思いが伝わることはない。側から見れば「仲の良い普通の家族」が抱える闇が法廷で暴かれていく。言わなければわからないことがどんどんと表へ現れる。書き記された言葉や録音された会話は切り取られ、別の物語に仕立て上げられる。記憶や記録はかくも弱いものなのか?
流動的でありつつも記憶は時に呼び覚まされる。だがそれが本当であるという保証はどこにもない。あとは受け取り手次第だ。
「親密になるというのは味方をすることだ」というような意味のフレーズが印象的だった。そのせいで最後まで穿って観ていてモヤモヤする。