Kei

関心領域のKeiのネタバレレビュー・内容・結末

関心領域(2023年製作の映画)
5.0

このレビューはネタバレを含みます

アウシュヴィッツ強制収容所の隣に住む家族が収容所で行われている惨劇に関心を払わず暮らす様子とその異常さが描かれた作品。
ヘス家はアウシュヴィッツ強制収容所の隣で暮らしておりその暮らしぶりはまるで楽園のようなものだった。
大きな家では使用人が作った美味しそうな料理が連日出され、家の庭はプール付きで、また沢山の野菜や花が育てられている。
そんな誰もが羨むような日常を過ごすヘス家の隣には、アウシュヴィッツ強制収容所がある。
そこからは毎日のように銃声が聞こえ、昼夜を問わず焼却炉から人を焼いた煙が立ち昇る。
そんな光景が日常になってしまっているヘス家の関心は専ら仕事や子育てのことであり、壁の向こう側で起こっている惨劇には関心を持たない。
しかし、そうした日常に慣れていない外部者からは、ヘス家を取り囲む日常は異常なものに見える。
その例が妻の母親だ。
妻の母親は鉄道に乗り遠路はるばるアウシュヴィッツにある娘の家に来た。
到着した当初は庭やそこに植えてある野菜、花などに目が向き、娘の家での生活を羨む。
しかし妻の母親は、昼には収容所からの煙に咳き込み、夜には収容所から発せられる赤い炎を見て、この生活が羨む対象などでは決してなく異常なものだと気づく。
それに気づいた母親は早々に娘に断らずに娘の家を発つ。
本作は一貫して、こうした惨劇に目を向けずそれを日常のものとしてしまっている家族を「異常」とみなすことを通して、当時ユダヤ人への迫害を当然のものとして見做していた社会全体を「異常」として糾弾する。
しかし、本作には良心と言える存在も登場する。
それはヘス家の父親だ。
父親は収容所で勤務しており、その働きぶりが認められ昇進するほどに仕事熱心な男だが、自らの仕事の正当性を疑い罪悪感を感じている。
収容所で働く父親の顔が映されるシーンでは、父親は何かに悩んでいるかのような顔をしている。
また、転勤後に父親がナチス関係者の社交パーティーに参加したシーンでは、父親は「ここにいる奴らをガスで殺したい」という趣旨のことを語っている。
これらに加えて最後のシーンでは、現代においてアウシュヴィッツの悲劇が二度と起こしてはならない悲惨な出来事として見做されている事実が映されており、こうした事実が父親の想像の中身であるかのような演出を通して、父親が自らが関与している仕事の未来における評価を疑問視していることがわかる。
これらのシーンから、父親は自らの生活のために仕事を続けてはいるものの、仕事に対して大きな罪悪感を感じていることが分かり、それ故に父親は本作における良心の一つだと考えることが出来る。
こうした父親に対して、妻は自らの豊かな生活を守ることに必死で壁の向こう側で行われていることの悲惨さなど目にもくれない。
使用人にはきつくあたり、旦那の転勤に伴ってアウシュヴィッツを離れなければならないと知ると激怒するほど、快適で豊かな生活を守ることに必至なのだ。
きっと妻にはアウシュヴィッツでの豊かな生活を守ることが人間としての倫理よりも何よりも大切だったのだろう。
また本作では、細かい点に注意を向けると様々な気づきがあった。
まずは、収容所から来た焼却炉の担当者が脱いだブーツを使用人が洗っているシーンだ。
このシーンではブーツから血が洗い流されていることが、わずか数秒のシーンながらも確認出来る。
このシーンからは、焼却炉の担当者がユダヤ人を殺した後にヘス家に来ていたことが分かる。
次に、父親が洗面所で鼻をかむシーンだ。
このシーンでは、父親が鼻を噛んだ後に洗面台に落ちた鼻水の中に黒い灰が含まれていることが分かる。
ここからも父親が収容所内部で働いていることが分かる。
本作では上記したような内容に加えて、芸術面での特徴もあった。
作品の多くのシーンは単色または少数の色で構成されており、またシンメトリーが意識されていた。
こうした無機質で非自然的な映像表現からは、ナチス関係者及び当時のユダヤ人迫害を容認していた社会の非情さを感じ取ることが出来る。
また、本作ではナチスが行った残忍な事実にフォーカスしていた点が高評価だった。
ホロコーストを描いた映画では「ライフ・イズ・ビューティフル」や「ジョジョ・ラビット」、「シンドラーのリスト」などがあるが、前者2作はコメディ要素が強すぎて、シリアスな事実との乖離からかなり違和感があった。
それに対して後者は事実に忠実に描いており違和感なく見ることが出来た。
本作を鑑賞する前は、本作は前者2作のように他の要素が挿入されることでホロコーストを描いた映画としては違和感のある映画になってしまうことを危惧していたが、ホロコーストにフォーカスされていたので後者のように違和感がなく良かった。
加えて、冒頭の始まり方も好みだった。
映像がなく、反響する人の会話と鳥のさえずりという音のみからの始まりは鑑賞者にどこか不安さを覚えさせる効果があり、不安という感情はその後のシリアスな内容とマッチする感情であるため、映画にスムーズに入っていくことが出来た。
演技に関しては、「落下の解剖学」で迫真の演技を見せたザンドラ・ヒュラーがまたも良い演技を見せていたと思う。
Kei

Kei