浦切三語

哀れなるものたちの浦切三語のレビュー・感想・評価

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
3.5
いままで「不条理な世界」を描いてきたヨルゴス・ランティモスだったが、「籠の中の乙女」も「ロブスター」「聖なる鹿殺し」も、その不条理な世界の描き方のリアリティラインは低くかった。そのリアリティラインの低さのために、ランティモスの不条理映画は寓話や風刺としての側面が強かった。

ところが、前作「女王陛下のお気に入り」からリアリティラインは高くなり、そこで描かれる不条理社会は、私たちの現実をそのまま引いてきたような、人間関係のパワーバランスに起因していた。

作品を経る毎に、不条理を生み出す主体を、人間の具体性にフォーカスしていくランティモス。今回は、それをより強めている。

この映画で頻繁に登場する要素は、以下の通りだ。すなわち。

①脳外科医(ゴッドウィン)。
②解剖学(解剖学を講義するゴッドウィン、解剖学を聴講するベラ)。
③人体改造(ゴッドウィンの虐待に近い自らの身体的改造、娼館の女主人の全身刺青、片腕がフックの客)、
④性風俗(身体の商品化)。

これらは全部人間の具体性すなわち肉体が関係している。その肉体を肉体として機能させるカギ、すなわちコントロール権の玉座に座り、ひいては「肉体」なる言葉の極北にあるのが、他ならぬ私たちの「脳」である。

無垢→好奇心→欲求→知識欲→社会欲と、知識と経験を積んで成長していく主人公のベラ・バクスター。知識を蓄えて経験から学び成長するには、当然思考が必要である。その思考を生み出すのは言うまでもなく、私たちの脳ミソである。

その「脳」こそが、ベラや男たちを取り巻く不条理な世界のシステムを産み出しているという、元も子もないことを、この映画はブラックユーモアな調子で面白おかしく語りかけているんじゃないのか。

「地獄はぼくたちの頭の中にある」とは誰の言葉だったか。資本主義や社会主義の嘘に騙されてはいけないという、船で出会った黒人男性の忠告は意味深だ。それらのもっともらしい思想を生み出したのは私たち人間の脳であり、資本論がやったことを考えれば、多くの他者を殺してきたのは、私たちの脳そのものだと言える。

だが、脳があるから人は喜びや楽しさを味わうことができる。世界を感覚する最も重要な器官である「脳」が私たちの肉体を通じて、どのように世界を認識して形作っていくか。その事を映画は語り続けている。脳が人の振る舞いを完全に支配する、その当たり前でありながら普段我々が意識しない事実を、皮肉と残酷さを混ぜ合わせた「メェ~」で示し終わる。それを見て幸せそうな顔をするベラもまた、自分の過去ではなく「脳」に縛られた生き方を受容していく。

自分たちの思考、すなわち自分たちの「脳」が生み出した認識や思考の流れ、そうしたものに振り回される人のこの映画は、ある意味で登場人物の全てを「哀れなるものたち」と表現しているのかもしれない。

哀れなるものたち……原題は「Poor Thing」……「哀れなる物」……物ってなんだ? それって私たちの肉体のことだ。この、地獄と楽園を作り出す脳ミソのことなんだ。それを示唆するエンディングクレジットのラストもラスト。脳の襞みたいな紋様が描かれた緑色の壁をバックにタイトルが出たとき、ようやくこの映画が語っているであろことを自分なりに解釈できた。

しかしながら、映画としてみるとちょっと微妙というか。世界の閉塞感の表現技法として、アイリスや魚眼レンズ効果、ズームなどの映画的表現を使うなとは言わないけど、ちょっと使いすぎでは?なんかそこにあざとさを感じてしまったんだよな。

【追記】
この映画、ベラがダンカンと船旅に出るまでのシーンが、ベラが旅に出る動機と背景に至るまで『フランケンシュタインの怪物』の作者であるメアリー・シェリーの半生を描いた『メアリーの総て』に酷似してるんですよね。ランティモスが『メアリーの総て』を参照してるかどうかは知る由もないし、むしろ原作小説自体がメアリー・シェリーひいては彼女の両親にまつわる話を引用しているんだろうとは思いますが、そう考えるとこれはフェミニズムをハッキリと意識した作品であることは、メアリーの母親が有名な女性解放運動家であったことを考えるに、当然のもの。だからアカデミー賞にノミネートされたのも納得がいくというものです。

【感想※動画版】
https://youtu.be/bZdXXl-1Oug?si=FxBg2yKAJyR_A_5m
浦切三語

浦切三語