赤苑

哀れなるものたちの赤苑のネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
4.8

このレビューはネタバレを含みます

 観たのがもう2週間前になってしまったけど、書き残し長文メモ。これはくらった、もう、はちゃめちゃによかった。ここ3年の中でも指折りの衝撃で、さっそく2024の年間ベスト大本命、大傑作だと思う。あらゆるものから“解放”されてゆく、圧倒的カタルシスに脳汁ドバドバ、『哀れなるものたち』世界のエキセントリックな中毒性に一瞬で虜になった。エログロもふんだんにあり、確かに賛否はかなり分かれる類の描き方がされてるとは思うけど、自分は圧倒的賛。最大の理由は、もしこの世界の全員がこの映画を観たとしたら、社会的規範が少しだけ動くような可能性を感じるから。かつ、観客の全員が「部外者」にはなり得なくて、何かしら自分を省みる必要性に迫られるから。このふたつが感じ取れて、かつ娯楽性に満ちた“面白い”作品なんて滅多にない。『プロミシング・ヤング・ウーマン』もその類の作品で、だから大好き。「女性の自由」をざっくり中心テーマとして据えるなら、もちろん有害な男性性というか、男性の一方向的な欲望への痛烈な風刺ももちろんあるんだけど、女性に属するからといって免罪符が貰えるわけでもなくて。ベラ以外全員が自分の言動をはたと省みて、赤面するような瞬間がゼロではないはず。映画も、観客も、等しく自己批判にさらされる、全員に少しずつ当てはまる作品。
 何から書いたらいいのかわからないけど、まずは「型」がしっかり踏まえられているから、一見キテレツにも見える映画世界の軌道にすんなりと乗れる。話の筋としてはいたってシンプルで、内容理解は難しくなくて、その代わりにどう解釈するかが個々異なるタイプ。まず幼児の脳を持つベラが“大人”へと成長していくビルドゥングスロマン的要素(原作小説も考慮の上)があり、ベラがロンドンから旅立ち、リスボンにパリに世界を旅するロードムービー的要素があり。このふたつの上に、人間の成長を描く唯一無二の青春物語が立ち現れる感じ。その土台に、女性が自由を求めて抑圧をひっくり返していくという、通時代性のあるテーマが絡みつく。普遍的なメッセージってのは叫び続けないといけないものだから、そこに現代性があるのはある意味では当たり前。この映画世界の空想的で、幻想的で、SF的でもあって、色んな要素がごった煮で渾然一体となった世界観は一見時代錯誤的だけど、この絶妙なアンバランス感が稀代の主人公のベラを唯一取り囲めるもので、気付いたら癖になっている。異常に背景がぼかされた絵画的なショットとか、空の色の独特な色彩感覚とか、いわゆるランティモス的広角レンズ、魚眼レンズ使いとか。画面いっぱいに情報が溢れていて単純に見ていて飽きないし、不協和音な音楽も相まって歪んだ世界認知に惹きつけられる。挿絵的な白黒のアイキャッチから額縁のようなエンドロールまで目が離せない。街にはヴィクトリア朝的な雰囲気があるけれど、ベラの衣装も髪型も決してその限りではなくて、ショートパンツルックだったりおろした長い髪だったり、むしろ大胆に逸脱していく。ポップでキャッチーな高度に様式化された世界にちりばめられる、ダークな可笑しみ。シンプルな構造に、不思議とレイヤー感のある歪んだ世界観が独特に展開されていて、映像から得られる情報だけで圧倒的に楽しめる。
 そこで展開される物語は一見コメディタッチながらダークなホラー要素もあり、毒っ気あるユーモアたっぷりな、誇張されたシュールな“大人の寓話”。ルックだけでなく、内容ももちろん随所にツイストが効いている。ベラは言ってみれば完全に無垢なファムファタル。完全な無知がスタート地点にあるからこそ、人間を囲む障壁を爽快なほど軽々と越えていく。周りがどう反応するかには無関心で、自分の興味、純粋な意志で自由な成長を遂げていく。思春期的な過剰な苛立ちも経験しながら、世界の残酷さを知り、関心が自分主体から外向きに、自身を世界にどうコミットするかという問題に対峙する。ダンカンたち男性と同様に、観客もベラについていくので必死。幼いベラを“見守って”いた観客は、みるみるうちにベラに追い越されていく。リスボンのバーカウンターに頭を打ち付けるダンカンの背中をさするベラ。もう完全にベラの方が“大人”である。最後には、もはやベラを哀れみの眼で見つめる者はいない。ベラをはじめ、登場人物の変化が本当に豊かで面白い。
 大人と子どもという権力構造の逆転は、もちろん男性と女性という構造にも置き換えられる。ベラの思春期的性の目覚めは、白黒からカラーになる瞬間に露骨に表れる。自らの性欲に忠実なベラに対して、「良識ある社会」ではそれは許されないと慌てる周りの大人たち。ベラの掟破りなカッコ良さは常に世間とぶつかる。「帰ったら鳩のような結婚をしよう」といったマックスの台詞もむなしく、リスボンのホテルでは箪笥の上に鳩が止まり、ベラとダンカンの“熱烈ジャンプ”を見つめているというふざけたズームも一興、女性の性欲が立ち現れる瞬間を「下品」だと思っていないか、とふと我に返る。ベラは食に、性に、哲学に、貪欲に出会い、学んでいく。悲観的で現実主義のハリーとは世界認識に関する議論を交わす。それを嫌がり、マーサを罵り、本を海に投げ捨てるダンカン。衝動的にダンスに向かうベラを無理やり社交ダンスに落とし込もうとするダンカン。女性の学びと成長は“可愛らしさ”とは遠いものとして、ベラを「良識ある社会」に当てはめようとするダンカンの試みはことごとく失敗し、パリの娼館のバルコニーに出たベラを見上げる姿はロミオとは程遠く、見るも哀れな姿である。男性だけでなく、女性だって「私の身体は私のもの」という当然のことを当然のこととして認識するベラは、受動的な性の在り方に疑問を感じ、娼館では新しい提案をし、お客と人間的な交流を図ろうとする。平等の実現なんていきなり難しいこと言わなくても、ひとつずつ“支配”をなくすことならできる。娼館で嬉しそうにするベラの笑顔はとても尊く、ベラの性の在り方をどこか「下品」だと感じていた自分をメタ的に省みて、思わず恥じ入るばかり。この映画のベッドシーンはどれも露骨だけどどこかあっけらかんとしていて、いやらしくない。
 典型的な制約を強いる封建的な社会から解放されていったベラは、バクスターの死期を知りロンドンへ戻り、“結婚”と向き合う。そして有害な男性性のラスボスのごとき将軍と対峙する。そしてダメ押しの二転三転あってからの、あの箱庭的なラスト。女性が男性を完全に凌駕する、といった爽快さもありながら、ちょっと待てよ、と。ベラは本当に自由なのではなく、結局ゴッドと同じことをしている点で父の手の平の上ではないか?一見女性は賢くて男性は馬鹿という図式的結論に辿り着いたようにも見えるけど、女も男も実は関係なくて、人間のどうしようもない性と、それにまつわる生きづらさが輪廻しているのではないか?とふと考え込む。人間の動物性を皮肉味たっぷりに描いてきたランティモス作品ならではの、最後まで静かに歪んだ世界。視覚的楽しさ、シンプルな構造と内容の奥深さが重なり合い、結局誰が「哀れなるもの」なのか?観客もベラも「哀れなるもの」なのではないか?と『怪物』にも似た余韻がほろ苦く後を引く。
 とまあぐだぐだ言いながらも、個人的には手放しで絶賛している大傑作です。巨大な解放感も感じながら、はたと立ち止まって自分を省みるような作品は堪らなくやめられない映画体験になる。レイヤーになった世界のどこが白眉だと思うかはあとはもう人による。付け加えておくと、個人的には鑑賞後に船上で出会う老婦人のマーサがファスビンダー『マリア・ブラウンの結婚』のハンナ・シグラだったと知って、目から鱗だった。あのシーンの意味合いが一気に深まるような気がする。この映画を観ている自分をメタ的視点で捉えること、序盤のスピード感の中でしっかり映画のレールに飛び乗ること。このふたつができれば絶対に楽しめる。『女王陛下のお気に入り』に引き続き、ヨルゴス・ランティモスとエマ・ストーンの超強力タッグは、なんと次作も決まっているそうな。それはもう、めちゃくちゃ楽しみにしておきます。
赤苑

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