津次郎

哀れなるものたちの津次郎のネタバレレビュー・内容・結末

哀れなるものたち(2023年製作の映画)
3.9

このレビューはネタバレを含みます

成人の身体に胎児の脳。
フランケンシュタインの現代版といった趣の話。

テリーギリアムのような魚眼でベラバクスター(エマストーン)の成長をつづっていく序盤、ベラが夢中になるのは、最初は食べ物、つぎは(身体は大人なので)性欲。
身体は大人だけど頭は新生児という描写と、屋敷内を闊歩するキメラ生物。前半は絵として映画的ではあるけれどそれがどうしたというような話だった。

しかしダンカン(ラファロ)と享楽的な旅行に行き、放蕩しながらも社会構造や人間関係を知り、アイデンティティに目覚めていくと、じょじょに歪んだ世界が見えてきて、言ってみればギレルモデルトロからランティモスへ変わっていく感じがあった。

とりわけアレクサンドリアの城塞の高みから地上の賤民を見下ろした時から映画の様相が変わる。それはベラが世界の不平等に憐憫を感じて社会主義的な思想へ傾向した瞬間でもある。

子供の頃「社会主義とか共産主義とはどんな思想なの?」という質問を親にしなかっただろうか。親は「それはみんな平等にするという思想だよ」と答えるので、(子供の)わたしは「それなら社会主義や共産主義のほうがいい思想なんだね」と言う。この会話は子供時代の定番で、そこまでがセットになっている。

実際の社会はそう単純なことではなく富国や自由には資本主義のほうが適しており、そもそもベラが美食と情交三昧の冒険ができたのはダンカンが裕福であったからであり、不平等に突発的な憐憫を感じたのは彼女が世間知らずだったからである。

だが文無しになって娼婦に落ちてもベラの好奇心と生命力は衰えない。ベラの無知はしたたかさであり、生まれたばかりの脳と成人の肉体がもたらす吸収力の速さによってベラはいちじるしい成長をとげる。結果ベラは次第に周りの人間たちを凌駕していく。

映画哀れなるものたちを見ながら考えるのは誰のことを、あるいはどっちのサイドを哀れなるものたちと称しているのか──ということだが、当初は人体実験で生まれたベラが哀れで、つぎに寝取られた婚約者マックスが哀れになり、つぎにベラのデタラメぶりに嫌気がさしたダンカンが哀れになり、やがて死にゆく創造主ゴドウィンが哀れになり、結局映画は出てくる全員が哀れになって「たち」がついている理由を知るのだが、ベラはたくましさを身につけ、やがてじぶんが乗り回している女の肉体の記憶に決着をつける。

というのもベラバクスターに生まれ変わる前のヴィクトリアブレシントンは虐待と恐怖で女を支配するDV夫アルフィーから解放されるために自殺を選んだ──わけである。

川に身投げしたヴィクトリアの溺死体を拾ったのが外科医ゴドウィン(デフォー)。妊娠していた彼女の胎児の脳を移植してベラバクスターを創り上げた。
ベラは世界を回って知識や知恵をつけ、娼館で渡世術とタフさを身につけ、山羊の脳をDV夫のアルフィーに移植して、哀れなヴィクトリアのかたきを討つという輪廻転生、因果応報の復讐劇でもあった。

ただし映画は風刺でもありコミカルでもあり、リアリズムもファンタジーもあるが、ひとつの明らかな主張/命題というよりはそれぞれの見え方に委ねるという話だったと思う。

個人的には回帰を感じた。ランティモスの原点は籠の中の乙女(2009)(Dogtooth、Kynodontas)だと思うのだが、それへ回帰するのを感じた。なんとなく。

籠の中の乙女はArturo Ripstein監督のメキシコ映画El castillo de la pureza(純潔の城、1972)という映画から着想したそうだ。

1972年の映画のプロットはとある夫が外界が家族に害を及ぼすと確信し、妻と3人の子供たちを「純粋さ」を保つために18年間家に閉じ込めている。──という実際にあった事件からつくった映画で、その脆い状況が、子供たちが思春期を迎えていることに気づくと更にグロテスクに歪んでいく・・・。籠の中の乙女もまさにそういう映画だった。

意図的に世界から遮断されて生きているきょうだいが出てくる。その者らは人間社会を知らないのでめちゃめちゃな規範で生きている。そういうプロットや着想が哀れなるものに重なるところがあったのでランティモスが原点回帰した──と思った次第。

imdb7.9、RottenTomatoes92%と79%

映画はヴェネチアで金獅子賞をとりアカデミー賞ではエマストーンの主演女優賞を含む4部門をとったほか多数のアワードや協会で賞をとった。
ストーンは巧いし、眦(まなじり)だけでいろいろ語ってしまうし、だんだん賢くなっていく感じがよく出ているが作品自体が女優賞を獲れるタイプの作品であり役であったとも思う。
つまり俳優というものはみんな巧いわけだから(巧くないなら俳優やっていないわけだから)ストーンがとくべつに巧いというよりは、獲れる作品に出ることや、獲れる作品をつくるランティモスのような才人に好かれることが重要だと思った──のだった。

言いたいのは、本作のストーンは素っ裸になってとんでもない熱演をするが、とんでもない熱演をどうでもいい映画でやってはいけないという話である。
例によって全く無関係のものを引き合いにするがたとえばStrangeCircus奇妙なサーカスでスパゲッティをわしづかみで食べた女優はその熱演が報われただろうか──という話である。日本のうんこみたいな映画で素っ裸の熱演が報われた人がいましたか──という話である。たとえばヘルタースケルターの主演女優にも言えるし日本映画全体に言えることだがクオリティの低い作品で脱いではいけない──と言いたいのと、日本映画での熱演はことごとく徒労に帰するわけだから、俳優に罪はないにしてもかれらを哀れなるものたちと言うことはできるような気がしたという話。
津次郎

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