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夜の外側 イタリアを震撼させた55日間/夜のロケーションのarchのレビュー・感想・評価

4.8
イタリア映画祭で鑑賞 メモ&評を載せておく。

第一章
アルド・モーロの最後の時、如何なる人物が誘拐されたのかを家庭を描くことで描出する。その場面のほとんどが夜のベットシーンであることが、ある意味本作のタイトルとも重なる象徴的な夜を連想させる
冒頭の虚構のベットシーンは史実を知らない観客に、本作のハッピーエンドを予感させ、対して知るものには教皇や内務大臣の脳内イメージ(願望や後悔、自戒の出力先)として表れるモーロ達の行き着く先の幻影

共産党との連立政権に対しての反抗勢力、赤い旅団
その旅団が学校にまで迫っている事態によって緊迫感が描かれていた。
第ニ章
ファウスト・ルッソ・アレジのパラノイア的な演技が見事。彼とアルドの家庭描写の対比、アルドへの信仰。『桐島』的な中心の欠如、その余波を描いている

絡まった旗を直す行為の象徴

第三章
教皇という立場、その限界がラストの文書の無力感に描かれる。コッシーガ、その手紙の内容聞いてどうすんねん。アルド・モーロ

肉の苦行 シリス帯

第四章
この章は赤い旅団側の視点で描かれている章。
子供が自宅に隠されていた銃を発見することで始まる訳だが、言ってしまえばこの章は、「赤い旅団」というテロリスト集団を単純なプロレタリア革命家から"人間"への着地させるためのものだ。見た目のサークル活動感から来る「よく成功したな」という感じや、内部での意見の相違。そして何よりも大義以上に非常に個人的(かつそれは社会的な病理ともいえるよう)な体制や権力への脊髄反射的な敵意が根底にあることの提示。ここは監督の創作部分だろうと予想できるが、冷戦下70年代の当時の学生運動や社会全体にあった空気が凝縮されるようだった。
人を殺してから気づく。行為の残虐さ取り返しのつかなさ、それらは女性団員の妄想に反映される。この章及び6章において関心を向けられるアルド・モンロー誘拐時に殺された"名も無き"人への視座は5時間半ある作品なら必須の視点だろう。

第五章
この章はモーロ夫人に視点を当てた章である。全6章を除けば一番面白い章。イタリア政府(キリスト教民主党)と赤い旅団(誘拐の首謀者)の対立構造が常にある中で、モーロ家族視点でイタリア政府の不甲斐なさ、モーロの意思や尊厳が踏みにじられることのグロテスクさが開示されていく。
第一章に続き、モーロの家庭風景が描かれるわけだが、今回はその物語の視点は夫人(及びモーロ以外の他家族)へと移行するので、より強固にモーロのキリスト教的な人格が描かれる。
政治家としてのモーロと夫としてのモーロ。家庭の外に顔を持つ人間を描くときに頻繁に描かれるその内外の不一致は家族の孤立を見事に描き出しており、その必然であるモーロの死に国民には共有できない意味があることを痛感させられるのだ。

第6章
この為にこの映画は5人の人物を紹介し、フィクションと現実を製作の段階でもレイヤー、劇中においても混同させてきた溜めが発揮される。
遂に本作では第一章振りにアルド・モーロが登場する。
これまでも画面にはアルド・モーロが登場するが、それは"誰かに投影されたアルド・モーロ"なのだ。その存在の在り方はイタリアな45年経っても癒えぬ傷として残るこの事件のように、つまり"誰かしらの心象"のような在り方だ。
第二章では、コッシーガの精神的な疲弊の先に見えた幻影として、第三章では、十字架を背負うキリストの受難を再現するように、(つまり国の生贄にされようとしている親愛なる男として)第四章では、川を流れていく死体の1つとして(複数の死体の中の一つというのが良い)第5章では、これまでとは違い在りし日の姿、或いは夫や父としてのアルド・モーロの姿として回想される。
そしてそれらの"誰かのアルド・モーロ"を経て、ようやく誘拐され死を覚悟している姿が描かれるのだ。そこには死に脅え、憎しみを制御出来ないと告解するモーロの姿が描かれるのだ。あくまでそのモーロすらもなんの根拠もないフィクションだ。"誰かのモーロ"なのだ。
しかしそんなことに自覚的になる余裕もなく、彼は目隠しされ、車に押し込められる。この事件の顛末を知るか否かによってこの映画の罠に気づく瞬間は違うだろう。
本作の冒頭の、現実との不一致。フィクションである場面と実際に存在する手紙の一文の重ね合わされたワンシーン。
そのシーンによって、事件の顛末を知らないものはハッピーエンドを予想するだろうし、知るものは、その仕掛けがいつ発動するのかと、体を強ばらせる他ないのだ。
そしてそんな知る者にとってもその"誰かのモーロ"の"誰か"がコッシーガだと明かされる。パラノイアじみていて、見えない白い斑点が広がるのを幻視し続けていた男は、盗聴の音声を聴き、モーロの生還を幻視する。冒頭のあれはコッシーガのものであったのだ。そしてフィクションだからこそ生還するのではと、甘く夢を見てしまった観客なのだ。
このラストには幾重にフィクションと現実、観客とコッシーガ、希望と絶望が織り重ねられているのだ。
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