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黄色い繭の殻の中のCHEBUNBUNのレビュー・感想・評価

黄色い繭の殻の中(2023年製作の映画)
5.0
【魔法を操る者は魔法の世界で己の魂に触れる】
アテネ・フランセで昨年の東京フィルメックスにて観逃したベトナム映画『黄色い繭の殻の中』を観た。本作はカンヌ国際映画祭でカメラ・ドールを受賞、東京フィルメックスでも最優秀作品賞を受賞している。カイエ・デュ・シネマでの評価も高い。しかしながら、周りでの評判はとても悪く、ジェネリックタルコフスキー、またはアピチャッポンだとか水で薄めたグー・シャオガンと散々な言われようだったりする。上映時間も3時間と長いことから敬遠していたのだが、2024年上半期映画ベストの追い込みで観た。これが大傑作だった。それどころか全く巨匠のジェネリックではない作品であった。

サッカーの試合会場からカメラは横移動を始め、着ぐるみを捕捉する。着ぐるみは屋台街で客に物を売り始める。画は3人の男の駄話に注目し始める。田舎における信仰をボヤくように語っていると、ビール売の女に絡まれる。その時、突発的な雨が降り始めて交通事故が発生する。ファム・ティエン・アン監督の短編『常に備えよ』の延長ともいえる、長回しの中の突発的な事故が丁寧に描写されるのだ。

映画はサウナに映る。男に着信がかかるのだが、無視し続ける。マッサージのお姉さんが「出なくていいんですか?」と訊くのだが、「神からの電話だ、いや顧客からだけどね」と言いながら無視する。しかし、友人から取れと言われて渋々電話を取る。

本作は長回しを多用するスローシネマだ。映画は人生のダイジェストであり、カットによって退屈な部分が削ぎ落とされたものと捉えると、長回しはその全てが人生の華であり、我々が生きる中で何気なく過ごす時間に対する凝視を促す。その中で雨や事故といった決定的瞬間が起きるわけだが、映画なので人為的なものとなる。この手の長回し映画では、人生における偶発性を強調するために動物が起用されがちで、本作もその流れを汲むわけだが、ファン・ティエン・アン監督がユニークなのは、そこに「中間」の描写を挿入し、映画における偶発性にグラデーションを設けたことにある。

重要なのは「電話の着信」と「手品」だ。「電話の着信」は、主人公がいやいやながらも村に帰り、信仰と向き合う必要が出てくる運命を象徴したものとして、最初の30分で執拗に強調される。これは、撮影の中で人為的に起こる魔法である。次に、主人公は「手品」を披露する。映画は自由自在に時間を操ることができるため、手品との相性は悪いと思っている。しかし、長回しの中で手品をすればそれは誤魔化しようもないホンモノの手品だ。この手品が興味深い。病院のベッドで息子に対して手から次々とトランプカードが生み出されていく。山村では暗がりの中からベルが現れる。彼は半袖Tシャツを着ている状態なのでどうやってカードやベルを隠しているのかが分からない。我々は魔法が生まれる瞬間を目の当たりにするのである。つまり、主人公は魔法を操る人物であり、そんな彼が山村の魔法(=マジックリアリズム)に触れていく。映画の中での嘘が段々とホンモノの魔法に変わっていくような世界を提示しており、これが慧眼であった。

さて、本作の目玉は長回しであるが、これはタル・ベーラ映画のように複雑である。バイクに乗って山村にある家に向かい、老人から戦争の話を聞かされる15分近い長回しにまず脳天を撃ち抜かれる。カメラは家に着くも、窓の外側からじっと眼差しを向ける。主人公と老人が語り合う様子を少しづつズームで捉えていき、やがて家の中まで侵入する。ふたりがフレームから消えたかと思いきや、カメラはにじり寄るように横移動し、家の中とは思えない特殊な闇の空間へとたどり着く。

他にも、かつて好きだった女と廃墟で追いかけっこする場面では、360度パンをしながら、適切に隙間へ被写体を押し込む。

これらの長回しはひとつの時間軸の中で捉えられるのだが、最後だけ異なる。山村の果てで結局行方不明の兄は見つからず、彼の分身のような赤子を預かり川辺へ出る。カメラがパンする中で、時空間が歪み、繭倉庫の前でバイクをベッドにして寝る彼の世界へ突入する。おじさんが現れ、「邪魔だ!」と煽られ、少し横にズレるが、扉が開き、再度怒られる。行き場を失った彼は川へと入っていく。

それまでの場面で、カットを割り夢が描かれる描写があった。マジックリアリズムの世界に入ることで、赤子を預かるパートが夢なのか現なのか曖昧になっていくのである。この場面において、他の長回し監督にはない演出が観られる。川で主人公が寝そべると、自然の音が変わる。川の中から撮ったような音に切り替わるのである。『常に備えよ』もそうだが、自然的ざわめきの連続性を捉えながらも、その場面の主体が聞く実際の音に歩み寄っていく。こんな演出がかつてあっただろうか?意識の流れを捉える中で、長回しを使うと画に注目がいきがちだが、聴覚面も重要なのではないかというファム・ティエン・アン監督の視点。これと出会えただけでも素晴らしいものがあった。

そして、最後に物語面だが、マジックリアリズムとは「一期一会の親密さから来る不思議さ」を描いているものだと感じた。都市では会話の機会が多い、友人はもちろん、屋台街で次から次へと現る売り子、店での軽い会話。これらは希薄なコミュニケーションであるように映画は捉える。友人同士の会話も、主人公の心の声なのか実際の会話なのか曖昧になる瞬間がある。しかし、村へ向かいおじいさんやガス欠の状態を助けてくれるお兄さんといった一期一会に近い対話は、どれも主人公と向き合った親密さがある。なによりも、バイク修理屋にいるおばあちゃんが急に「他者の魂とは相容れない」と生と死における魂のありどころを語る様は異様でありながらもモラトリアムに彷徨う主人公の内面に迫るものがある。魔法を操る者が山村の魔法に触れ、自己の魂と対峙する話へと修練させていく。このアプローチもまた味わい深いものがあった。

周りの評判も悪く、予告編を観てもピンと来なかったが、こんな逆転劇がある。だから映画を辞めることはできないのである。
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