大江崇允監督作品。
映画でスマホが登場するということは、このようなことなんだと思った。
本作はARアプリ「ミミ」のカリスマ的存在である明日香の行方を捜す物語であるが、映画それ自体が現実を拡張しようとする意欲が窺える。
物語における現実では、登場人物が路上に集まってスマホをかざしている。それは端から見たら、おろかで異常な姿である。だが、彼らのスマホの画面にはアイドルや明日香がいる。それは紛れもない現実であり、現実が虚構によって拡張されている。さらに現実と虚構の区分はもはや失効して融解を果たしているのだ。それを現代性ということはもちろんできるし、映画そのものにも言えるはずである。
もうひとつ印象的なのは登場人物の感情が発明されているということである。
それは明日香ーあのに顕著であるが、彼女が映画で現す感情は決してあのちゃん当人のものではない。だがあのちゃんから確かに発せられる明日香の感情である。この不思議な感じ、だけど当たり前のことを本作の世界観やあのちゃんの演技が導いているように思える。
間宮と明日香は同じフレームに存在して対話する。しかしそれは現実の間宮とVRの明日香であって、決して交わることはないはずだ。けれど映画だから存在できてしまう。対話ができてしまう。そしてカットバックになるとき、間宮と明日香の視線の先に相手はいないかもしれない。おそらく同時に撮影はされていない。テイクも何度も重ねているはずだ。しかし対話しているように錯覚する。感情を発露しているように思える。そして確かに対話をしている。やっぱり不思議な感覚になる。
今回『雨の中の慾情』に脚本協力でクレジットされていることから、監督作品も鑑賞することにしたのだが、近畿大学で舞台芸術を学び、劇団も旗揚げした経歴が窺える面白い演出であった。映画において、どのようにフィクションを立ち上げるかを徹底的に考えているようだし、次回作もとても楽しみだ。
ただ本作には伊藤園やコカ・コーラだったりとタイアップや物語世界にあえて登場させることによる広告が透けてみえるし、キャスティングにも大人の事情がゴリゴリに絡んでいそうで萎えてしまった。それも映画製作の難しさであると思うが、虚構に現実が参入している徴として甘んじて受け入れるとします。